婚約者に捨てられた魔女です。このたびおじさま、拾いました。

 店内に静けさが戻っても、セルジュたちを乗せた馬車が遠ざかる音が聞こえてきても、ネアの心はざわついたままだった。

 ほとんど手つかずのミルクティーが入ったカップを片付けようとする。しかし指先に力が入らず、ソーサーが不格好な音を立てた。

(あれ、おかしいな……。あのくらい、別に大したことじゃ……)

 焦りが募るあまり手元を誤る。テーブルの端に置いていたシュガーポットが傾き、そのまま床へ落ちそうになる。
 だが、陶器の砕ける音が響くことはなかった。
 瞬時に伸びてきたヴィルの手が、落下寸前でそれを器用に受け止めたからだ。

「ご、ごめんなさい! すみません、ヴィルさん……!」

 彼は先ほどまで、セルジュが戻ってこないよう、出入り口付近の窓から外を見張ってくれていた。
 余計な手間をかけさせてしまった申し訳なさに、胸の奥がじわりと熱くなる。

「ネアさん、ここは私が片付けておきますから、今日はもう上がってください」
「わ、わたし、大丈夫です。ちゃんと働けます」

 少し時間が経てば、この嫌な気分だって落ち着くはず。
 無理矢理に笑顔を浮かべたが、低く落ち着いた声がネアを諭す。

「酷い顔色です。無理をしないで」

 優しいが、有無を言わさぬ口調だった。
 胸が詰まって何も言えず、ネアはそのままぺこりとヴィルに一礼すると、早足で店の裏手に引っ込む。

 エプロンを外し、二階へ繋がる階段を上ろうとしていると、厨房からひょいとルヴェナが顔を出した。
 腕に大きな箱を抱えているのを見るに、どうやら業者が材料を納品に来ており、そちらに手を取られていたようだ。

「ネアちゃん、なんだか騒がしかったみたいだけど大丈夫だった――ってあら!? 顔色悪いわよあなた! 具合悪い? お医者さま呼びましょうか?」
「軽い立ちくらみだと思うので、大丈夫です。少し二階で休ませてもらってもいいですか?」
「いやだ、当たり前じゃない。お店のことは気にせず、眠ってなさいね」

 伯母の心配そうな視線に見送られ、階段を上る。
 自室に戻って鏡台を覗き込むと、なるほど。自分で思っていた以上に顔は血の気を失い、青を通り越して白かった。

(これじゃ、役立たずって思われるのも仕方ないなぁ……)

 この顔色のまま仕事を続ければ、きっと今以上に周囲へ迷惑をかけていただろう。
 明日の仕事のためにも、ヴィルと伯母の厚意に甘えて身体を休めておいたほうがよさそうだ。

 のろのろと寝間着に着替え、寝台に潜り込む。
 目を閉じれば、セルジュのねっとりした視線や手の感触を思い出しそうになり、必死で魔法計算式を頭の中で唱えて気を紛らわせた。

 ――そんなことを繰り返している内に、いつの間にか眠りの世界に落ちていたようだ。
 目覚めた時、部屋の中は窓から差し込む光によって赤く染まっていた。

 ゆっくりと上半身を起こし、サイドテーブルに置いている時計を見ると、既に店が閉まって一時間は経過していた。
 耳を澄ますと、階下からは食器を洗うような音が聞こえてくる。

(今日は忙しかったから、中々片付けが終わらないのかも……)

 気分もだいぶよくなった。今なら、これ以上迷惑をかけずに済むだろう。
 ネアは寝台から床に足を下ろし、立ち上がった。そして部屋の扉を開け、階下に向かおうとする――が。

「ネアさん! 何をやっているんですか」

 ちょうど階段を上ってきたヴィルに、その行動を見咎められてしまった。

「ヴィルさん……? あの、お手伝いに行こうかと」
「今日は休んでいてくださいと言ったでしょう。……ほら、ベッドに戻って」

 まるで、駄々をこねる子供に言い聞かせるような眼差しと声だった。

(わたし、もう十九歳なのに……)

 かすかな気恥ずかしさを感じながら、促されるままに寝台に戻る。
 階下からはいまだに食器を洗う音が響いており、伯母が居残りをしてくれていたことに気づく。

「店長から、ネアさんが目覚めたかどうか確かめてくるようにと言われまして。具合はいかがですか? チキンスープと白パンを用意したのですが、食べられそうですか?」
「は、はい。おかげさまで、すっかりよくなりましたので……」
「それはよかった。では、すぐに用意しますね」

 そう言い残し、ヴィルは再び階下へと去って行く。
 間もなく戻ってきた彼の手には、器を載せたトレイがあった。

「どうぞ、店長特製のチキンスープと白パンです」
「わぁ……! ありがとうございます」

 トレイをサイドテーブルの上に置くと、ヴィルは当たり前のように椅子を引っ張ってきて、寝台のそばに腰を落ち着ける。
 どうやら、食事を置いてすぐ戻るつもりはないらしい。

「あ、あのう。ヴィルさん……?」
「ネアさんはひとりになると、色々考え込んでしまいそうですから。食べ終わるまではここにいます」

 そうは言われても、とネアは困惑しながらスプーンを手に持つ。
 こんな美形に間近で見つめられながら食事をするなんて初めての経験で、無駄に緊張してしまう。

 だが、食べ終わらなければヴィルはいつまで経ってもここを離れられない。
 なんとかスープを掬い、口元に運ぶと、優しい味わいが口いっぱいに広がった。
 芳醇なスープの奥には、かすかな甘酸っぱさが隠れている。

(これ……干し林檎の味……。お母さまが作ってくれたチキンスープと、同じ隠し味だわ……)

 一口飲み込んだ瞬間、懐かしさに胸が締め付けられ、両目から涙が零れ落ちる。
 具合が悪い時や、落ち込んだ時。母はいつも娘を気遣い、このスープを作ってくれた。

『あなたのおばあさまから習った、元気の出るとっておきのレシピなのよ』

 そう言って、優しく微笑んでくれた母の顔が脳裏に浮かぶ。
 母もルヴェナも、かつて自身の母親から元気が出るようにとチキンスープを作ってもらったのだろうか。
 だからルヴェナは、ネアのためにこのチキンスープを作ってくれたのだろうか。在りし日の母と同じ気持ちで。

「……ネアさん?」

 ヴィルの低い声が、かすかな驚きと共にその場に落ちる。
 大丈夫だと言おうとした。
 けれど、取り繕おうとすればするほど涙が溢れ出して、まともに言葉が出てこない。

「っ、ごめ、なさい……」
「――謝らないで」

 ヴィルの手がネアの肩に触れようとし、指先が触れる直前で離れていく。
 彼は代わりに、懐から取り出したハンカチをそっとネアに手渡した。

「無理に我慢しなくていいんです」

 穏やかな声だった。
 責める色も、困惑もない。
 ただ静かに、泣くことを肯定してくれる声音。

 その言葉を聞いた途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

「ふ……っ、うぅ……っ」

 ネアはハンカチに顔を埋め、子供のように泣き続けた。
 その間、ヴィルは何も言わず側にいてくれた。
 触れられてもいないのに、背中を優しく抱かれているような、不思議な安心感に包まれる。

 やがてようやく涙が止まった頃、ヴィルのハンカチは涙でぐっしょりと濡れ、搾れば水滴がしたたるほどだった。

「みっともないところをお見せして、ごめんなさい……」

 この年になって人前で大泣きするなんてと、今更ながら恥ずかしさがこみ上げてくる。ぐずぐずと鼻を啜りながら気まずい思いで謝ると、ヴィルは困ったように笑った。

「みっともないなんて思いませんよ。それに……私のほうこそ、謝らないと」
「――え?」
「先ほどは、助けに入るのが遅くなってすみませんでした。不安な思いをさせてしまいました」
「そんな、ヴィルさんが謝ることじゃありません! あのくらい、自分で対処できないわたしが――」

 悪かったんです。
 口にしようとした台詞は、しかし音になる前に消えた。
 穏やかに微笑んだヴィルが、口元に人差し指を当てて小さく首を横に振ったからだ。

「あなたは何も悪くない。悪いのは、人の気持ちも考えず自分勝手に振る舞ったあの男だ。そうでしょう?」 

 その言葉に、ネアは息を呑んだ。
『何も悪くない』
 ただその一言が、胸の奥深くへ静かに染み込んでいく。

 ルシアンに婚約破棄された時も。
 悪評によって魔法塔を解雇された時も。
 セルジュに乱暴に腕を掴まれた時も――。

 ネアは心のどこかで、自分にも悪いところがあったのだからと思っていた。

 もっと可愛げがあれば。
 もっと優秀だったなら。
 もっとしっかりしていれば。

 そうすれば、こんな目に遭わずに済んだのではないかと。
 けれどヴィルはそんなネアの考えを否定するように、静かな眼差しを向けてくる。

 胸の奥が、再び熱くなる。

 自分を責めなくていい、悪いのは傷つけた相手なのだ――と。
 その言葉は、今傷ついているネアだけではなく、過去に傷つけられ続けた心までも、悲しみの淵からそっと掬い上げてくれた。