「ヴィルさーん。外の掃除が終わったら、店の天井のランプを外してもらってもいいですか? なんだか調子が悪いみたいで、伯母さまが修理に出そうかって」
「わかりました。もうすぐ終わるので、待っていてください」
ネアの呼びかけに、店の前を箒で掃いていた男性が振り向いた。
長い睫毛に縁取られた青灰色の瞳は、冬の気配を孕んだ夜明けの湖のよう。
銀の髪は男性にしては細く、淡い月光のような艶を纏っている。
高い鼻梁と薄い唇は酷薄にも見えるのに、かすかな笑みは不思議な包容力すら感じさせる。
整いすぎるほど端正な顔立ちは、年齢を重ねた男性にしかない、燻し銀のように深みのある色気を纏っていた。
ネアの口から、思わず「ふわぁぁぁ」と間の抜けた声がこぼれる。
あまりに美しいものを目の前にした時、人は語彙力を失うものだ。
芸術品然り、満天の星然り、磨き抜かれた宝石や計算され尽くした魔方陣などなど。
目の前の男性はまさにネアにとって、そういった類いの人間であった。
(たまに通りかかったご年配の方たちが、彼を拝む気持ちがわかる……っ)
他者にそうさせるほどの圧倒的な何かが、彼にはあった。
「……あの、ネアさん? 私の顔に何かついていますか?」
「あっ、いっ、いえ! 失礼しました! わたしは店内の清掃に戻ります!」
自分でも気づかぬうちに、相手の顔を長いこと見つめていたらしい。困惑した目を向けられ、ネアは慌てて店内へ走り去る。
棚の上をはたきで掃除していると、奥で珈琲豆を挽いていたルヴェナがひょっこりと顔を出した。
「ヴィルさん、大分元気になってよかったわねぇ。毎日うちの手伝いもしてくれて、本当に助かるわぁ」
「はい……」
『ヴィル』というのは、記憶を失った彼のためにネアが付けた仮の名だ。
倒れていた当時、彼が身につけていたのは一通りの衣服のみ。
身元を示すものは一切見当たらず、町役場に届け出たが「手がかりすらないんじゃねぇ……」と、やんわり追い返されてしまった。
この場合、ネアに取れる選択肢としては
①男性を保護する
②男性を放り出す
の二つなわけだが、記憶喪失の人間相手に後者を選ぶのはさすがに良心が咎める。
さりとて、ネアもまた職場をクビになったばかりの宿無し。男性を保護するためには、伯母に縋るしかない。
ネアは、自分と彼をしばらくの間、琥珀亭の客間に置いてもらえないかと必死で頼み込んだ。
もちろんその間、ふたりで琥珀亭の手伝いをすることも付け加えて。
幸いにして、ルヴェナは「部屋も余ってるしいいわよぉ」と二つ返事で頷いてくれた。
琥珀亭はこれまで伯母がひとりで切り盛りしていたが、本業である貿易会社が多忙の際は、店を休まざるを得なかったらしい。
何度か従業員を雇ったこともあるが、そのほとんどが辞めていってしまい、困っていたのだとも。
どういうことかと聞けば、男性従業員を雇えば伯母に惚れてストーカー化し、女性従業員を雇えば彼女を迎えにきた恋人が伯母にメロメロになり、壮絶な修羅場が繰り広げられたそうだ。
美しい伯母を羨ましく思ったこともあるが、モテすぎるというのも大変なものである。
『その点、ネアちゃんなら姪っ子だから信頼できるし、ヴィルさんもあたしには興味ないみたいだから心配いらないわ~』
と、ルヴェナは上機嫌だった。
とにかく彼女としては、これからの観光シーズンに向けて、働き手が増えるのは大歓迎らしい。
こうして、ネアとヴィルは琥珀亭の二階に住み、朝から夕方までは店の手伝いをすることになったわけだが――。
「なんだか浮かない顔ねぇ。……まさかヴィルさんに、変なことされたりした?」
滅多になく深刻な表情のルヴェナに、ネアは思わずぎょっとした。
「な、なに言ってるんですか!? 変なことって――」
「ほら、夜這いとか……。やっぱり各部屋に鍵が付いてるとはいえ、男女を一つ屋根の下に一緒に住まわせるべきじゃなかったかしら」
ちなみにルヴェナは普段、琥珀亭には住んでいない。閉店すると少し離れた場所にある本邸から迎えの馬車がやってきて、それに乗って帰宅するのだ。
ヴィルが倒れていたあの日は、新メニューの開発が深夜までかかったため、偶然にも泊まり込んでいたらしい。
「そ、そんなんじゃありませんから! ヴィルさんは紳士ですし……」
具体的な紳士エピソードだってある。
そのうちの一つが『部屋にヤモリ出没事件』だ。
事の顛末はこうである――。
以前ネアが寝る前に読書をしていた際、部屋にヤモリが出たことがあった。
ヤモリが大の苦手なネアは、悲鳴を上げながら廊下に飛び出し、ヴィルの部屋の扉を叩いた。
ヴィルは至極冷静に自身の羽織っていたガウンをネアに着せかけた後、ヤモリを窓の外へ追い出した。
そして『風邪を引きますから、薄着はほどほどに。それでは、おやすみなさい』と微笑み、部屋に戻っていった。
そこで初めて、ネアは自身が薄手の、丈の短いネグリジェ姿であったことを思い出したのだった――。
(一切、まったくちっとも、動揺してなかった……)
別に、ヴィルに対して恋愛感情を抱いているとか、そういうわけではない。
とはいえ、ああも冷静でいられると『あれ? わたしって女として見られてない?』と自分のあまりの色気のなさにショックも受けようものである。
『大体、お前はおしゃれに疎いしいつもクソダサい格好ばかりしていて色気もへったくれもない上に、身体の凹凸にもとぼしいときた。はっきり言って女としての自覚も魅力もまったくない』
別れ際のルシアンの言葉が追い打ちを掛け、なおさらへこむ。
そんな内心を伯母に悟られたくなくて、ネアはあえてなんともないように笑ってみせた。
「大体ヴィルさんみたいな大人の男性が、わたしのような小娘を相手にするわけないじゃないですか! 元婚約者だって言ってました。お前は色気もへったくれもないし、女としての魅力もないって。……つまらない女なんです、わたしは」
「――そんなことはないと思いますよ」
店の入り口から聞こえてきた声に、ネアは「ぴゃっ」と妙な悲鳴を上げながら飛び上がった。実際、3㎝くらい浮いた気がする。
いつからそこにいたのだろう。
ドアの側に、ヴィルが立っていた。
片手に箒とちりとり、もう片方の手には木の葉やら木枝やらをまとめた袋を持っている。
「あらぁ、ヴィルさん。お掃除お疲れさま」
伯母はのんびりとヴィルの労をねぎらっているが、ネアはそれどころではない。
「い、い、い、いつからっ、どこから聞いて……っ」
顔を赤くしたり、青くしたりしながら問いかけると、ヴィルは大真面目な表情でネアに近づいてきた。
「すみません、盗み聞きをするつもりはなかったのですが、偶然聞こえてしまって……。〝元婚約者だって言ってました〟のあたりから」
「よ、よかった――!!」
思わず五体投地で神に感謝の祈りを捧げるところだった。
先ほどのネアの台詞は、聞きようによっては『ヴィルに相手にされなくてふてくされている』という風に捉えられかねない。
「あの、つまらない愚痴を聞かせてしまってすみませんでした!」
「いいえ、とんでもない。それに、ネアさんはとても可愛らしい女性です。働き者ですし、お客さまからの評判だっていい。もっと自信を持ってください」
「えっ、あっ……」
邪気を全く感じさせない、純度100%の励まし。
であるにも関わらず、異性から褒められ慣れていないネアは『可愛らしい』という言葉に過剰に反応し、頬を熱くしてしまう。
「そ、そんなことは……。でも、ありがとうございます……っ」
「いいえ、とんでもない。それでは、私はランプを取り外して参りますね」
――ネアさんはとても可愛らしい女性です。
――可愛らしい女性です。
――可愛らしい。
ヴィルがその場を立ち去ってからもしばらく、ネアは何度も脳内で彼の言葉を反芻し、その余韻に浸ったのだった。
「わかりました。もうすぐ終わるので、待っていてください」
ネアの呼びかけに、店の前を箒で掃いていた男性が振り向いた。
長い睫毛に縁取られた青灰色の瞳は、冬の気配を孕んだ夜明けの湖のよう。
銀の髪は男性にしては細く、淡い月光のような艶を纏っている。
高い鼻梁と薄い唇は酷薄にも見えるのに、かすかな笑みは不思議な包容力すら感じさせる。
整いすぎるほど端正な顔立ちは、年齢を重ねた男性にしかない、燻し銀のように深みのある色気を纏っていた。
ネアの口から、思わず「ふわぁぁぁ」と間の抜けた声がこぼれる。
あまりに美しいものを目の前にした時、人は語彙力を失うものだ。
芸術品然り、満天の星然り、磨き抜かれた宝石や計算され尽くした魔方陣などなど。
目の前の男性はまさにネアにとって、そういった類いの人間であった。
(たまに通りかかったご年配の方たちが、彼を拝む気持ちがわかる……っ)
他者にそうさせるほどの圧倒的な何かが、彼にはあった。
「……あの、ネアさん? 私の顔に何かついていますか?」
「あっ、いっ、いえ! 失礼しました! わたしは店内の清掃に戻ります!」
自分でも気づかぬうちに、相手の顔を長いこと見つめていたらしい。困惑した目を向けられ、ネアは慌てて店内へ走り去る。
棚の上をはたきで掃除していると、奥で珈琲豆を挽いていたルヴェナがひょっこりと顔を出した。
「ヴィルさん、大分元気になってよかったわねぇ。毎日うちの手伝いもしてくれて、本当に助かるわぁ」
「はい……」
『ヴィル』というのは、記憶を失った彼のためにネアが付けた仮の名だ。
倒れていた当時、彼が身につけていたのは一通りの衣服のみ。
身元を示すものは一切見当たらず、町役場に届け出たが「手がかりすらないんじゃねぇ……」と、やんわり追い返されてしまった。
この場合、ネアに取れる選択肢としては
①男性を保護する
②男性を放り出す
の二つなわけだが、記憶喪失の人間相手に後者を選ぶのはさすがに良心が咎める。
さりとて、ネアもまた職場をクビになったばかりの宿無し。男性を保護するためには、伯母に縋るしかない。
ネアは、自分と彼をしばらくの間、琥珀亭の客間に置いてもらえないかと必死で頼み込んだ。
もちろんその間、ふたりで琥珀亭の手伝いをすることも付け加えて。
幸いにして、ルヴェナは「部屋も余ってるしいいわよぉ」と二つ返事で頷いてくれた。
琥珀亭はこれまで伯母がひとりで切り盛りしていたが、本業である貿易会社が多忙の際は、店を休まざるを得なかったらしい。
何度か従業員を雇ったこともあるが、そのほとんどが辞めていってしまい、困っていたのだとも。
どういうことかと聞けば、男性従業員を雇えば伯母に惚れてストーカー化し、女性従業員を雇えば彼女を迎えにきた恋人が伯母にメロメロになり、壮絶な修羅場が繰り広げられたそうだ。
美しい伯母を羨ましく思ったこともあるが、モテすぎるというのも大変なものである。
『その点、ネアちゃんなら姪っ子だから信頼できるし、ヴィルさんもあたしには興味ないみたいだから心配いらないわ~』
と、ルヴェナは上機嫌だった。
とにかく彼女としては、これからの観光シーズンに向けて、働き手が増えるのは大歓迎らしい。
こうして、ネアとヴィルは琥珀亭の二階に住み、朝から夕方までは店の手伝いをすることになったわけだが――。
「なんだか浮かない顔ねぇ。……まさかヴィルさんに、変なことされたりした?」
滅多になく深刻な表情のルヴェナに、ネアは思わずぎょっとした。
「な、なに言ってるんですか!? 変なことって――」
「ほら、夜這いとか……。やっぱり各部屋に鍵が付いてるとはいえ、男女を一つ屋根の下に一緒に住まわせるべきじゃなかったかしら」
ちなみにルヴェナは普段、琥珀亭には住んでいない。閉店すると少し離れた場所にある本邸から迎えの馬車がやってきて、それに乗って帰宅するのだ。
ヴィルが倒れていたあの日は、新メニューの開発が深夜までかかったため、偶然にも泊まり込んでいたらしい。
「そ、そんなんじゃありませんから! ヴィルさんは紳士ですし……」
具体的な紳士エピソードだってある。
そのうちの一つが『部屋にヤモリ出没事件』だ。
事の顛末はこうである――。
以前ネアが寝る前に読書をしていた際、部屋にヤモリが出たことがあった。
ヤモリが大の苦手なネアは、悲鳴を上げながら廊下に飛び出し、ヴィルの部屋の扉を叩いた。
ヴィルは至極冷静に自身の羽織っていたガウンをネアに着せかけた後、ヤモリを窓の外へ追い出した。
そして『風邪を引きますから、薄着はほどほどに。それでは、おやすみなさい』と微笑み、部屋に戻っていった。
そこで初めて、ネアは自身が薄手の、丈の短いネグリジェ姿であったことを思い出したのだった――。
(一切、まったくちっとも、動揺してなかった……)
別に、ヴィルに対して恋愛感情を抱いているとか、そういうわけではない。
とはいえ、ああも冷静でいられると『あれ? わたしって女として見られてない?』と自分のあまりの色気のなさにショックも受けようものである。
『大体、お前はおしゃれに疎いしいつもクソダサい格好ばかりしていて色気もへったくれもない上に、身体の凹凸にもとぼしいときた。はっきり言って女としての自覚も魅力もまったくない』
別れ際のルシアンの言葉が追い打ちを掛け、なおさらへこむ。
そんな内心を伯母に悟られたくなくて、ネアはあえてなんともないように笑ってみせた。
「大体ヴィルさんみたいな大人の男性が、わたしのような小娘を相手にするわけないじゃないですか! 元婚約者だって言ってました。お前は色気もへったくれもないし、女としての魅力もないって。……つまらない女なんです、わたしは」
「――そんなことはないと思いますよ」
店の入り口から聞こえてきた声に、ネアは「ぴゃっ」と妙な悲鳴を上げながら飛び上がった。実際、3㎝くらい浮いた気がする。
いつからそこにいたのだろう。
ドアの側に、ヴィルが立っていた。
片手に箒とちりとり、もう片方の手には木の葉やら木枝やらをまとめた袋を持っている。
「あらぁ、ヴィルさん。お掃除お疲れさま」
伯母はのんびりとヴィルの労をねぎらっているが、ネアはそれどころではない。
「い、い、い、いつからっ、どこから聞いて……っ」
顔を赤くしたり、青くしたりしながら問いかけると、ヴィルは大真面目な表情でネアに近づいてきた。
「すみません、盗み聞きをするつもりはなかったのですが、偶然聞こえてしまって……。〝元婚約者だって言ってました〟のあたりから」
「よ、よかった――!!」
思わず五体投地で神に感謝の祈りを捧げるところだった。
先ほどのネアの台詞は、聞きようによっては『ヴィルに相手にされなくてふてくされている』という風に捉えられかねない。
「あの、つまらない愚痴を聞かせてしまってすみませんでした!」
「いいえ、とんでもない。それに、ネアさんはとても可愛らしい女性です。働き者ですし、お客さまからの評判だっていい。もっと自信を持ってください」
「えっ、あっ……」
邪気を全く感じさせない、純度100%の励まし。
であるにも関わらず、異性から褒められ慣れていないネアは『可愛らしい』という言葉に過剰に反応し、頬を熱くしてしまう。
「そ、そんなことは……。でも、ありがとうございます……っ」
「いいえ、とんでもない。それでは、私はランプを取り外して参りますね」
――ネアさんはとても可愛らしい女性です。
――可愛らしい女性です。
――可愛らしい。
ヴィルがその場を立ち去ってからもしばらく、ネアは何度も脳内で彼の言葉を反芻し、その余韻に浸ったのだった。


