全て、順調だった。
……それなのに。
「止めて止めて」
ヴォーカルディレクターの声がヘッドホン越しに響き渡った。突然メロディーが止まって、次の歌詞を飲み込んだ。ボーカルブースと隔たれた調整室にいるヴォーカルディレクターが、納得いかないように首を傾げた。
「感情が全然足りないなぁ」
「足りない……?」
「この曲って、最初の方は片思いの女の子なんだよ」
「……片想いの、女の子」
言葉を繰り返すことしか出来ない。調整室に隅で待機している青木が、唇を噛み締めるのが見える。
「全然感情移入出来ないんだよ。全然恋する乙女って感じじゃないんだよね?」
心臓が収縮して、無意識に強く拳を握っていた。
「例えば……好きな人に見つめられて、思わず目を反らしちゃったり。好きな人に触れられて、顔を真っ赤にしたり。そういう情景が浮かばないんだよ。好きな人いないの?初恋の人とかさ」
身振り手振りで話すヴォーカルディレクターに、あたしは目を伏せた。ミルクティー色の髪がなだれ落ち、うつむいた視界に震えた拳が映った。
……好きな人。
あたしはその言葉を心のなかで、繰り返した。
小さい頃から、変わらない。
あたしの心のなかにいるのは、ただ一人だ。
何年もそれは変わらない。
「好きな人、……います」
あたしは顔を上げて、マイクに向かって、そう告げた。
