花は散れども

夷国船が萩にやって来てから、ひと月経ったある日の事である。

その日はどうも秀三郎の様子がおかしかった。阿呆のように呆けて、先生の授業にも身が入らない様子だったのだ。いつもは誰よりも鋭い目で書物を睨んでいる秀三郎のその様子を、志乃達は気味悪がった。

「清五郎、秀三郎に何があったか聞いてくれんか」
「志乃、気になるなら自分で聞けばよかろ?」

清五郎にしては珍しくつれない返事に、志乃はぷくりと頬を膨らませた。清五郎の言う通りだ。しかし、堂々と聞けぬからこうして頼んでいるのに、それを平気で突っ撥ねるなんて酷い。

それに、志乃が聞くより清五郎が聞いた方が秀三郎も話しやすいだろうと思ったのだ。なにせ志乃と秀三郎は会えば二言三事は軽口を叩く仲である。適当にはぐらかされるに決まってる。

「晋作、お前が聞いてくれんか」
「断る。それに、わしは元々秀三郎の様子などちぃーっとも気になっておらん」

「栄太郎……」
「わしは清五郎と同じ意見じゃ」

栄太郎が言うと同時に、晋作が耐えきれぬという様子で吹き出した。それに、よく見れば二人も笑っているではないか。

「なんじゃ、なんじゃお主ら!さては謀ったな!?」

志乃がまた文句を言ってやろうと口を開いたその時、襖が開いた。扉の先には秀三郎と文さんが立っていた。なんだか勢いを削がれた志乃は仕方なく栄太郎の横に座り込み、秀三郎の様子を睨んだ。

どうやら、阿呆の時間は終わったようだ。

秀三郎は、志乃達の様子など気にもくれず、文さんと話し込んでいる。

珍しい─────ふと、そう思った。

「聞いてごらんよ」

栄太郎が志乃に耳打ちした。それが引き金となり、志乃はまた立ち上がる。決心したのだ。皆が聞いてくれないのなら、私が聞いてやると。

「秀三郎」

堂々と声を張り上げて奴を見る。

「いきなりなんじゃ」

秀三郎は座ったままで志乃を見上げた。負けている、そう思ったのがいけなかった。

「なにかその、えー、と」

どう聞いていいかわからず、志乃はまごついた。背後で、晋作が声を押し殺して笑う気配が余計に頭を白くさせた。

「なんじゃ、言いたい事があるならはっきり申せ」

秀三郎は眉間に皺を寄せて志乃を見た。その隣で、文は不安げに二人を見つめている。

「志乃はこう言いたいんじゃ。“秀三郎、最近様子がおかしいが、なにか隠してる事があるんじゃないか”とさ」

助け舟を出したのは栄太郎だった。栄太郎も立ち上がり、志乃の横に立った。これほど頼もしいことはない。

「そうじゃ、なにか隠しておるのだろう!」

志乃が胸を張る。その瞬間、晋作が耐えきれず吹き出した。

「はははっ!もう言うてしまえ、秀三郎」

疑心はさらに大きくなる。自分だけが知らないという事実に、少しだけ胸が痛んだ。

もう耐えられんと思ったその時だった。

秀三郎の顔が赤い。

よく見れば、その隣の文も頬を染めている。

「志乃、実はな────実は、文さんと祝言をあげることになった」

「え?」

一瞬、意味が分からなかった。

次の瞬間。

「それは……おめでとう!!」

志乃は飛び上がるように叫んだ。

「あははっ!だから言うたじゃろう!」

志乃は文の元へ駆け寄ると、その手を取った。

「文さん、本当におめでとうございます!」

「ありがとう、志乃さん」

文は少し照れたように笑った。



その後の塾は大騒ぎであった。

晋作は秀三郎を肴に酒を飲みたがり、俊輔は何故か自分の事のように喜び、清五郎は終始穏やかに笑っていた。先生もまた、どこか誇らしげな顔をしていた。

祝言はその月のうちに執り行われた。

晴れ着に身を包んだ文は誰よりも美しく、秀三郎は終始落ち着かない様子だったが、その顔には確かな喜びが浮かんでいた。

松下村塾の誰もが二人の門出を祝った。

この幸せな日々が、いつまでも続くものと信じて疑わずに。