そう言って、朔はふっと笑った。
今まで見たどの表情よりも柔らかくて、思わず息を飲む。
この人、ちゃんと笑えるんだ。
なんて、そんな当たり前のことを考えてしまった。
「朔」
「え?」
不意に呼ばれて顔を上げる。
朔は壁にもたれたまま、こちらを見ていた。
「朔でいいよ」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
東雲は当然みたいに続けた。
「東雲じゃなくて、朔」
そのセリフに、心臓が妙に落ち着かなくなる。
いや待って、なんで急に。私たち、そんな仲だったっけ。
戸惑っている私を見て、朔は少しだけ楽しそうに目を細めた。
「呼んでみて、琴葉」
さらりと私の名前を呼ぶ。
その瞬間、なぜか胸の奥が小さく揺れた。
……何気に初めてだ。
今までたくさんの人に名前を呼ばれてきた。
ファンにも、スタッフにも、共演者にも。
なのに、どうしてだろう。
東雲に呼ばれると妙に落ち着かない。
「……」
「ほら呼んで?」
「うるさい」
「早く」
「急かさないでください!」
東雲が肩を揺らして笑う。
なんなの、この人。
数十分前まで感じ悪い人だと思ってたのに。
「さ、朔……」
ぎこちなく名前を呼ぶ。自分でも驚くくらいカタコト。
すると、朔は一瞬目を見開いた。
それから、くすっと笑う。
「ちょ、ちょっと……!」
「なんだよその呼び方」
「仕方ないでしょ!」
「初めて名前呼ぶ小学生みたいだな」
「もう呼ばない!!」
「それは困るな」
即答した朔に、思わず言葉に詰まる。
朔は相変わらず楽しそうに笑っていた。
さっきまでの無愛想な顔が嘘みたいに。
「琴葉」
また、名前を呼ばれる。今度は少しだけ優しい声で。
「な、何ですか」
「やっぱそっちの方がいいな」
「何がですか」
「今のお前」
朔は真っ直ぐ私を見た。逃げられないくらい真っ直ぐに。
「今の方が、俺は好き」
胸が、どくりと鳴る。
その言葉に、私は何も返せなかった。
だって、そんなことを言われたのは初めてだったから。
今まで誰も言わなかった言葉。
朔だけが、私の知らない私を見つけようとしている。
そのことが少しだけ怖くて、少しだけ、嬉しかった。
「……変な人」
ぽつりと呟く。すると朔は鼻で笑った。
「お前にだけは言われたくねぇよ」
夕方の光が廊下の窓から差し込む。
気づけば、最初に会った時の気まずさは、もうどこにもなかった。
