Please let me hear your voice-君の声を聴かせてー

雨は静かに街を濡らしていた。
細かな粒が傘の上で跳ねて、どこか懐かしい匂いを運んでくる。

歩は、駅前の横断歩道で立ち止まっていた。
傘を持たず、少し困ったように空を見上げている少女に気づいた。

少女は、濡れた前髪を指で払って、歩の方を見た。

その瞬間、歩は迷わず傘を差し出した。

「……入る?」

少女は驚いたように目を見開き、
すぐに小さく笑った。

「ありがとう……」

歩も照れたように笑う。
その笑顔は、雨の中でも不思議と温かかった。

ふたりは並んで歩き出す。
傘の下で、距離が少しずつ縮まっていく。
雨音が、ふたりの会話をそっと包み込む。

――その光景を、
麻衣は少し離れた場所から見ていた。

偶然だった。
学校帰りに駅へ向かう途中、ふと視線を向けた先に歩がいた。

そして、
歩が少女に傘を差し出す瞬間を見てしまった。

麻衣はその少女を知っていた。
同じ音大のピアノ科の、葉山友香。
かわいらしくて、でも真のある麻衣の友達だった。

麻衣は立ち止まった。
胸の奥が、ほんの一滴だけ痛んだ。

歩の優しさを知っている。
その優しさが誰かに向けられる瞬間を見たのは、
初めてだった。

いつもは女性に自分から話しかけることはない。
奥手で引っ込み思案の青年だった。

でも、麻衣はすぐに視線をそらした。
歩にも、友香にも気づかれないように、
自分の胸の痛みにも気づかれないように。

雨は静かに降り続けていた。
歩と友香の傘の下だけが、少しだけ明るく見えた。

麻衣はその光を見て、そっと息を吸った。

「……歩くん、優しいね」

誰にも届かない声で、
誰にも聞かれない場所で。

その日、
歩と友香の物語が始まった。

そして同じ日、
麻衣の“影の一滴”も静かに落ちた。

誰にも知られないまま。
誰にも気づかれないまま。