今、嫌な声が聞こえた。
私をこんな時間まで残業させている張本人の声だ。
……てっきり今日は直帰だと思っていたから油断していた。
パソコンを閉じようとした手を止め、お馴染みの声がした方向へ顔を向ける。
そして目を疑った。
つい先ほど先輩が出て行った方向。開いたオフィスのドアの前に立つ存在感のあるスーツ姿。毎日浴びるたびにげんなりしてしまう、真夏の太陽のように輝く彼の笑顔が──涙に濡れていた。
「……!?」
とても信じられないけれど、ありのまま、今私の目の前で起こっていること。
晴永夏生が、泣いている。
「うわ、こんな時間まで残ってたのか! 夜になって俺が頼んだやつだろ? ありがとう、ほんとごめ……っ」
私を労おうとする晴永のよく通る声が詰まり、同時に彼の潤んだ目元からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ出す。
彼は慌ててスーツの袖で目元を拭い始めるも、涙は次から次へと溢れて止まらない。
何が何やらわからないまま、私は居ても立ってもいられずデスクの脇に置いていたバッグからガーゼハンカチを取り出し、晴永の元へ駆け寄った。
顔をごしごしと擦り続ける彼の腕をどけ、痛ましいくらいに赤くなってしまった彼の目と頬にハンカチを当てる。
「そんなに擦ると良くないよ……大丈夫?」
「だ、だいじょ、ぶ! ごめ、んっ……」
ひっくひっくとしゃくり上げ始めた彼は、ついに声を出せなくなってしまった。
涙は一向に止まる気配がなく、彼がぎゅっと目を瞑るたびに溢れてくるそれを私はひたすら拭い続ける。
いったい何事だろうか。
商談中にトラブルでもあった? それとも帰社する途中で? 怪我をしている様子は特になさそうだけれど、この泣きようは尋常ではない。
先ほど一瞬だけ見せた、彼自慢の弾けんばかりの笑顔が今は鳴りを潜めている。
いつもキリリと持ち上がっている眉毛はしおらしく下がり、大きな瞳は腫れた瞼と長い睫毛に隠れ、薄く開かれた唇は息を吸い込むごとに頼りなく震えて。
なぜか目が吸い寄せられる。
こんな晴永、初めて見た。
なんか、なんだか、
たまらない。
「……っ!?」
とても信じられないけれど、ありのまま、今私の目の前で起こったこと。
私の唇が、晴永の唇に触れた。


