「咲良ちゃん!」
背後から突き刺さる綾瀬先輩の切実な声を、咲良は振り切るようにして無視した。
ただひたすらに、前だけを向いて足を動かす。
心臓が痛いほど脈打ち、肺が焼け付くように熱い。
それでも走るのをやめれば、自分の惨めさに押し潰されてしまいそうだった。
必死に走って、走って、息を乱しながら、咲良の脳裏には封印していたはずの中学時代の記憶が濁流のように蘇っていた。
(なんで……なんで今まで、忘れていたんだろう)
過去の苦痛から逃れるようにして、必死に自分を変えてきた。
だけど、もしかしたら今日みたいな日が来るかもしれないと、どうして最悪の事態を想定していなかったのか。
世界で一番知られたくなかった、一番醜いと思っていたあの頃の姿を、よりにもよって綾瀬先輩に見られてしまうなんて。
(そうだよ……。私が高校に上がって、見た目を変えてから、綾瀬先輩は私のことを好きになってくれたんだ)
今、先輩が向けてくれている優しさは、咲良が努力して作り上げた『偽物の自分』に対するものだ。
髪を伸ばし、メイクを覚え、可愛い服を着る。
そうやって必死に盛り立ててきただけで、自分の本質なんて、あの頃の臆病で地味な陰キャのままだ。
もし、綾瀬先輩が最初から過去の自分と出会っていたら。
間違いなく、今日みたいなキラキラしたデートをする日は訪れなかった。
学校の屋上で、海里先輩から「よかったね」と微笑みかけられることも、爽先輩や凌久先輩から「咲良ちん」「咲良っぴ」と無邪気にからかわれることもなかったはずだ。
住む世界が違いすぎたんだ。
過去の自分のままなら、彼らと交わることなんて絶対に無かった。
(どうして、忘れてしまっていたの……。どうして、私は、綾瀬先輩のことを……)
特別に思い始めていたのだろう…
身の程知らずな恋心の代償が、今、激しい痛みとなって咲良の胸を抉り取る。
「……もう、消えたい」
ぽつりと溢れた乾いた呟きは、誰に届くこともなく風に消えた。
気がつけば、綾瀬先輩と別れた公園のベンチから遠く離れた、川沿いの古い橋の上まで辿り着いていた。
限界だった。咲良はその場に立ちすくんだ。
堰を切ったように、大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちて止まらない。
今朝、鏡の前であんなに時間をかけて仕上げたお気に入りのメイクも、シースルーの袖が可愛い水色のワンピースも、今の咲良にとってはただ虚しく、すべてが色褪せて霞んで見えてしまう。



