心臓が不躾な音を立てて暴れる中、咲良はどうにか荒い呼吸を紡ぎ、目の前を占拠する金髪の男を睨みつけた。
これ以上、自分の自意識を彼に切り崩されてなるものか。
「何の謝罪ですか……っ。そんなに、私のことからかって楽しいですか!? 私は、綾瀬先輩の暇つぶしの道具じゃ――」
叫び出しそうになる咲良の言葉を、綾瀬先輩の少し切なそうな声が遮った。
「義理の姉なんだよ」
「……は?」
脳内の思考回路が、一瞬で複雑に絡まり合ってショートする。
何を言われたのか、日本語として理解するまでに、数秒の空白が必要だった。
(え、じゃあ、私が一昨日会った、あのやたらと綺麗で大人びた女の人は……綾瀬先輩の……)
咲良の貧困な予測回路が、ようやくひとつの答えにたどり着く。
「え、お姉さん……?」
「うん。年の離れた兄貴の奥さんで、灯っていうんだけど。あの人、見た目だけは若いからさー……」
綾瀬先輩が付け足した言葉を聞きながら、咲良は自分の網膜の裏に残る記憶を必死に手繰り寄せた。
そういえば、あの玄関口で、彼女は確かに自分のことを「あかり」と名乗っていた。
(え? じゃあ、私……。ただの身内のお姉さんのことを、勝手に彼女だって勘違いして、勝手にショックを受けて、勝手に泣きながら走って逃げ出したってこと……?)
みるみるうちに自分の特大の失態の全貌が明らかになり、咲良の顔はこれ以上ないほど急激に、沸騰するような熱を帯びていった。
恥ずかしさと情けなさで、頭がどうにかなってしまいそうだ。
何も言えずに暫くカチコチに黙り込んでしまった咲良を心配したのか、綾瀬先輩が「あれ? 咲良ちゃん?おーい?」と、さらに距離を詰めて咲良の顔を覗き込もうとしてくる。
その国宝級の瞳に、今の咲良の無様な、そして真っ赤に染まった表情を見られるわけにはいかなかった。
咲良は半ばパニックになりながら、突き出した両手で綾瀬先輩の目をぐいっと覆い隠した。
「うおっ!?え、急に何も見えなくなったんだけど!え?咲良ちゃん?」
視界を奪われた不真面目な綾瀬先輩が、珍しく慌てた声をあげる。
咲良はその手のひらの向こうの存在に向かって、消え入りそうな声で毒づいた。
「……バカ」
「え?」
「綾瀬先輩のバカ!何ですかそれ!なんなんですかそれ!私がただの一人相撲で、バカみたいじゃないですか!何のために私、色々悩んで、お昼休みに必死になって校舎を走って、こんなとこまできてっ……!」
防衛本能が決壊し、羞恥心のあまり涙目でまくし立てる咲良を見て、綾瀬先輩の口元から「あはは」と、緊張感のない笑い声が漏れ聞こえた。
その呑気な響きに、咲良はさらにムキになって声を張り上げる。
「な、何が可笑しいんですか!」
「いや、だって……。咲良ちゃん、俺に他の女がいると思って怒ってるってことはさ…もしかして、嫉妬してくれたのかなーって。そう思ったらさ、俺、マジで嬉しいなって……」
綾瀬先輩が覆われた手の指の隙間から、いつもの余裕を取り戻したような笑みを浮かべかけた、その瞬間だった。
咲良の手の力がふっと抜け、綾瀬先輩の視界がゆっくりと開ける。
そこにいたのは、顔をこれでもかというくらいに真っ赤に染め上げ、少しだけ目を潤ませながら、自分のことをじろりと、けれど酷く切なそうに見つめている咲良の姿だった。
「……え。」
綾瀬先輩の言葉から、からかうようなトーンが一瞬で消え去った。
「咲良ちゃん……マジなの……?」
長い睫毛の奥にある瞳が、今までに見たこともないほどの驚きと、そして隠しきれない歓喜の色を帯びて大きく見開かれる。
もう、限界だった。
これ以上この密室にいたら、自分の心臓が文字通り爆発してしまいそうで。
咲良はいたたまれなくなり、壁に押し付けられていた身体を強引にすり抜け、綾瀬先輩の腕の中から飛び出した。
「……っ、違いますからっ……!!」
最後にそれだけを叫び残して、咲良は埃っぽい空き教室から、逃げるように廊下へと飛び出していった。
残された静かな教室の中。
綾瀬先輩は、自分の手のひらを見つめながら、ぽつりと「え、マジ……?」と呟いた。
その金髪の耳の付け根は、今や咲良に負けないくらい、ほんのりと鮮やかな赤色に染まっていたのだった。



