長い、本当に心臓が破裂するかと思うくらい長い校舎の追いかけっこは、咲良の貧弱なフィジカルの限界という、至極当然の結末によって幕を閉じた。
咲良は完全に力尽き、誰も使っていない空き教室の前の壁に仕方なく手をついた。
肩を激しく上下させ、冷たくなった空気を取り込むために必死で息を整える。
「はぁっ…、はぁっ…」
そんな咲良の絶望的なサバイバル能力の低さを嘲笑うかのように、すぐ背後から、規則正しい少しだけ乱れた足音が近づいてくる。
「咲良ちゃん……っ、意外と足、早ぇ。……もう、終わり? 俺の勝ちで、いい?」
振り返ると、そこには咲良よりも遥かに軽々と息を切らし、汗ばんだ頬を制服の袖で乱暴にぬぐう綾瀬先輩が立っていた。
この校舎の逃走劇の直後だというのに、そんな冗談を口にする体力が残っているのだから、男女のスペックの格差を呪いたくなる。
咲良は荒い呼吸の隙間から、精一杯の棘をかき集めて睨みつけた。
「なんですか、それ……っ!勝負なんて、してませんけど……っ!?…っていうか、なんで追いかけてくるんですかっ…、いい加減ほっといてくれません!?」
咲良が怒りに任せて踵を返し、その場を立ち去ろうとした、まさにその時だった。
廊下の曲がり角の向こうから、やけに華やかで騒がしい、複数の話し声が響いてきた。
「えー、マジで!?」
「ウケるんだけど」
「ヤバいよねー!」
二年の女子生徒たちだった。
お弁当を終えて、話に花を咲かせながらこちらへ向かって歩いてきている。
咲良の脳内アラートが、最大音量で警報を鳴らした。
さすがにこの、汗だくの一年女子と、学校中の注目を浴びる金髪のヤンキー先輩が通路の真ん中で対峙している状況は、学校のヒエラルキー的に致命的な誤解を生みかねない。
焦った自分が、どうにかしてこの場を切り抜けようと綾瀬先輩の方を振り返った、次の瞬間だった。
「――っ」
咲良の思考が、物理的な衝撃によって遮断された。
綾瀬先輩の大きくて熱い手が、咲良の腕を強引に掴んでひっぱっていた。
そのまま、吸い込まれるようにすぐ横の空き教室のドアが開け放たれる。
「きゃっ……!?」
小さな悲鳴は、埃っぽい空き教室の静寂に一瞬で吸い込まれた。
勢いよく背中が壁に突き当たり、その衝撃で閉じた目を恐る恐る開いたとき、咲良のパーソナルスペースは完全に消滅していた。
ドン、と咲良の耳元サイドで鈍い音が響く。
綾瀬先輩の長い腕が咲良の顔の真横の壁を捉え、彼の大きな身体が、視界のすべてを塞ぐように覆いかぶさっていた。
少女漫画に載っている誰もが知っている『壁ドン』という非日常の出来事に、咲良は完全に囚われていた。
「ちょっと、綾瀬先輩!? 何するんです――」
パニックに陥った咲良が反論を試みようとした瞬間、綾瀬先輩の綺麗な人差し指が、咲良の唇をそっと塞いだ。
「静かに、」
鼓膜のすぐ近くで響いたのは、いつもの軽薄なトーンとは完全に一線を画す、ひどく低くて、男の子の重みを持った声だった。
咲良の心臓が、まるで檻に閉じ込められた野獣みたいに急激に暴れ始める。
ちょうどその時、さっきの二年の女子生徒たちは、咲良たちが潜む空き教室の前の廊下を、楽しげな足音を響かせながら通り過ぎていった。
彼女たちの気配が遠ざかっていく数秒間が、まるで数時間にも感じられた。
密室の暗がり、重なり合う二人の呼吸の音、そして、指先から伝わる生々しい体温。
咲良の胸の奥がギュッと切なく締め付けられ、たまらなくなって、目の前にある綾瀬先輩の顔をちらりと見上げた。
長い睫毛の奥にある瞳は、咲良を捕らえて離さない不穏な強さを持って、じっと自分を射抜いている。
気まずい沈黙のあと、綾瀬先輩はゆっくりと唇を開いた。
「……ごめん」
その一言には、いつも咲良をからかって楽しんでいたはずの余裕など、どこを探しても一ミリも残されていなかった。



