土日が明けても、咲良の心の底に溜まった冷たい泥水は一滴も乾いてくれなかった。
全身にまとわりつくような倦怠感を必死に振り払い、重たい腰を起こして、咲良はいつもの通学路をため息をついて歩いていた。
教室に着くなり、咲良の特等席の観客である茉那が、これ以上ないほどニヤニヤとした歪んだ笑みを浮かべて突撃してきた。
「咲良、おはよーっ! 聞いたよ聞いたよ~?あの綾瀬先輩の家に行ったんだってぇ!? ちょっとさ、もうそこまでの関係だったわけ? 水臭いじゃん、教えてくれたってよかったのにー!」
いつものハイテンションなちゃかし文句。
普段なら「ただの看病システムだから!」と即座にツッコミを返しているはずだったけれど、今の咲良にはそんな気力は一ミリも残されていなかった。
「……おはよう」とだけ蚊の鳴くような声で返し、自分の机に魂の抜けた殻のように突っ伏す。
そんな咲良のあからさまな異常事態に、茉那はすぐに笑顔を消し、慌てたように顔を覗き込んできた。
「えっ!? 咲良、どうしたの? 何その顔……。もしかして綾瀬先輩と、…なんか喧嘩でもした?」
その名前を耳にした瞬間、咲良の網膜の裏側に、あのタワーマンションの玄関に立っていた、ひどく綺麗で大人びた女性の姿が嫌な解像度でフラッシュバックした。
胸の奥がぎゅっと握りつぶされるように痛んで、どうしても気持ちが下へ下へと沈んでいく。
咲良はもう、この胸の痛みを一人で抱えきれなくなって、ぽつりぽつりと、先日の出来事を茉那に白状した。
「えええーーっ!? 綾瀬先輩の家に、別の女の人!? ちょっと、それどういうことよ!?」
茉那は文字通り食い気気味に絶叫した。
案の定、教室のあちこちからクラスメイトたちの視線がチラチラとこちらに突き刺さり始める。
咲良は慌てて茉那の制服の袖を引っ張った。
「ちょっと、声が大きいってば! 周りに聞こえるでしょ!」
「だって信じられないじゃん! 綾瀬先輩、あれだけ学校中で咲良のこと一途に追いかけ回してたくせに! とんだ裏切り者じゃない! 咲良がせっかく、勇気出して看病して頑張ったのに……!」
自分のことのようにプンスカと怒ってくれる親友の存在はありがたかった。
けれど、彼女が「裏切り者」とか「一途」という言葉を口にするたびに、咲良の左胸の奥はズキズキと、物理的な質量を持って激しく傷んだ。
その痛みに気づかない振りをしながら、貼り付けたような空元気の笑顔を浮かべる。
「ま、いいけどね。綾瀬先輩に誰がいたところで、私にはこれっぽっちも関係ないし」
「咲良……」
茉那は怒り顔をすっと沈め、咲良の目を真っ直ぐに見つめてきた。
その瞳には、からかいの色なんて微塵もなくて、心の裏側を見透かすような真剣さが宿っていた。
「……咲良、もしかして綾瀬先輩のこと、好きなんじゃないの?」
心臓を素手で掴まれたような衝撃に、咲良は少しだけ目を見開いた。
認めたら、本当に負けだと思った。
自分の歪んだ固定観念が、あの男のせいで完全に崩壊したことを証明してしまう。
咲良は慌てて視線を逸らし、自分の声を精一杯軽薄なトーンに変えてはぐらかした。
「そんなんじゃないよ、別に。なんか、あれだけ言っておいて嘘つかれてたみたいでムカついただけ! どーでもいいよ、今となっては!」
呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が苦しい。
咲良はこれ以上この話題に触れたくなくて、強引に席を立ち上がり、茉那に向かって宣言した。
「決めた。私、もう綾瀬先輩とは絶対に会わないから! 茉那、これから徹底的に逃げるから協力してよね!」
「えええ? ちょっと待ってよ、咲良! 綾瀬先輩に直接、その女が誰なのか理由を聞かないの!?」
「知らないわよ、そんなの!」
背後から響く茉那の困惑した声を振り切るようにして、すたすたと次の移動教室へと歩いていった。
聞けるわけがないのだ。
もしも「彼女だよ」なんて笑顔で言われたら、咲良の哀れな自意識は、今度こそ粉々に砕け散ってしまうのだから。
こうして咲良は、自分の本当の気持ちに鍵をかけたまま、彼からの完全な逃亡を企てるのだった。



