ORANGE×BOY


綾瀬先輩の指先の力が、寝返りと共にふっと緩んだのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 捕らえられていた右手をそっと引き抜き、咲良は「そろそろ、本当に帰ろう」と、静寂の満ちる部屋に小さく呟いた。
長居をしすぎたかもしれない。
これ以上この部屋の、そして彼の甘い気熱にあてられていたら、自分の自意識の形が歪んでしまいそうだった。

 ローファーを履くために玄関へと足を運んだ、その瞬間だった。

ーーーーピンポーン。

 静かな空間に、突如として無機質なチャイムの音が鳴り響いた。

「ひゃっ……!?」

 あまりのタイミングの悪さに、咲良は心臓が跳ね上がるほど驚いてしまった。

けれどすぐに、合鍵を託した海里先輩たちの顔や、あるいは綾瀬先輩の、まだ見ぬお母さんの姿が脳裏をよぎる。

それなら、看病に来た後輩として、何食わぬ顔で挨拶をしてバトンタッチすればいいだけのことだ。

 そう自分を納得させて、咲良はゆっくりと重い玄関のドアを押し開けた。

「れーん? 風邪大丈夫……って、あれ?」

 そこに立っていたのは、咲良の思っていた予想を何ひとつとしてかすめもしない、二十歳そこそこに見える、ひどく綺麗な女性だった。

 両手にはコンビニの買い物袋を下げている。
その中から、自分とは比べものにならないくらい大人びた、洗練された香水の匂いがふわりと漂ってきた。
彼女は咲良を見るなり、形の良い眉を少しだけ動かして、不思議そうに首を傾げた。

「蓮じゃなくて……女の子?」

 咲良は、自分が置かれた状況の解像度が急激に下がっていくのを感じて、言葉を失った。
 脳内で、最悪の予測回路が高速で回転をし始める。
 あれだけ学校の廊下で自分を追いかけ回して、あれだけ特別そうな笑顔を向けておいて、彼の家にはこんなに当たり前のように、綺麗な大人の女性がやってくるのか。

「(もしかして、元カノ…? )」
「(あるいは、彼女がいるのに私をからかって楽しんでいただけ…?)」

っていうか、綾瀬先輩は誰でも簡単に、自分のパーソナルスペースである家に上げているのだろうか。

 無数の憶測が咲良の頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、それに比例するように、胸の奥が冷たい泥水に浸されたみたいにずっしりと沈んでいく。

最初は、ただの混乱だった。
けれどそれは、一瞬にして猛烈なイラ立ちへと形を変えていく。

信じていたわけじゃない。
大嫌いなヤンキー先輩だと、最初から分かっていたはずだ。
それなのに、まるで信頼していた誰かに裏切られたかのような、胸が引き裂かれるような痛みが、咲良の心の中を苦しくさせた。

 目の前にいる、明らかに『母親』という記号からは程遠い美女に対して、咲良はショックを隠す仮面すら貼り付けることができなくなっていた。

 けれど、その女性は咲良の内面のパニックに気づく様子もなく、むしろ面白そうに口元を緩めた。

「ふふ、こんにちは。もしかして、蓮の彼女さん? 私は灯。蓮の――」

 彼女がその先の関係性を口にしようとした、まさにその刹那。
咲良は自分の耳を塞ぎたい衝動に駆られていた。
これ以上、この人から決定的な現実を聞かされたら、自分の心は本当に壊れてしまうかもしれない。

「ごめんなさいっ、お邪魔しましたっ……!」

 女性の言葉を強引に遮るようにして、咲良はそれだけをまくし立てると、彼女の横をすり抜けて、文字通りタワーマンションの廊下へと飛び出した。

 背後から、「あ、ちょっと…っ!」という声が聞こえたような気がしたけれど、咲良のローファーは、もう二度と振り返らないと誓ったような速度で、冷たいアスファルトを目指して走り出していた。

 残された玄関前で、灯はパタパタと走り去っていく咲良の小さな背中を、ただ不思議そうに見つめていた。
やがてその姿がエレベーターの向こうに消えると、彼女はコンビニ袋を抱え直しながら、クスリと楽しそうに微笑む。

「あはは、なんだ。あの子が蓮の言ってた……。めちゃくちゃ可愛い子じゃん~」

 自分が特大の誤解の種を蒔いたことなど一ミリも自覚していない大人の女性は、呑気にそう呟きながら、静かな✕◯◯▲号室へと足を踏み入れるのだった。