あまりの恥ずかしさに耐えかねて、咲良は逃げ道を求めるようにリビングへ向かおうとした。
けれど、背後から投げられた彼の声音が、咲良の足の爪先をフローリングではなくまたしても絨毯の上に縫い付ける。
「名前」
「え?」
思わず振り返ると、ベッドの上の綾瀬先輩は、いたずらが成功した子供みたいににっこりと笑っていた。
「名前、初めて呼んでくれた。マジで嬉しい」
その指摘に、咲良の左胸の奥がドクンと嫌なリズムで跳ねる。
自分の声が、彼の名前という二文字を確かに紡いでいたことに今更気付かされて、顔が急激に熱くなっていくのが分かった。
咲良はたまらなくなって無理やりそっぽを向き、防衛本能だけで言葉をまくし立てる。
「そろそろ呼ばないと、学校には『先輩』が多すぎてややこしいじゃないですか。ただのシステム的な都合ですっ…」
「はは、ありがとう、咲良ちゃん」
咲良の必死の言い訳など意に介さず、綾瀬先輩は本当に嬉しそうに声を立てて笑っていた。
その笑顔に、どうしてこんなにも胸がキュッと苦しくなるのか、その名前に気づかないふりをして咲良は視線をゆっくりとそらした。
その後、咲良は広すぎるキッチンに移動し、柄にもなくお粥を作って寝室へと戻った。
お盆に乗せた器を差し出すと、綾瀬先輩はこれ以上ないほど目を丸くした。
「ええ!咲良ちゃんの料理!?マジで?俺、嬉しすぎて…てかもう明日死ぬの俺??」
「ちょっと!人の料理を勝手に最後の晩餐みたいに言わないでもらえます?なにも食べずに治そうとするから、見かねて作ってあげただけですっ!」
咲良がじとっとした視線で睨みつけると、綾瀬先輩は少しだけニヤニヤとした、いつもの調子を取り戻したような顔でベッドから身を乗り出してきた。
「え?じゃぁもちろーん、"あーん"とかしてくれんだよね?」
「んなっ!するわけないじゃないですか!自分で食べてくださいっ!」
「えー」
完璧なシャットアウトを食らわせた後、綾瀬先輩はぶつぶつ言いながら大人しくお粥を口に運び始めた。
「はぁー、旨かったー! 咲良ちゃん、もう俺の奥さんでよくね?」
食べ終わるなり、そんな都合の良い妄想をのたまう金髪の頭を見下ろし、咲良はこれ以上ないほど冷え切った表情を貼り付ける。
「帰りますよ?」
「ごめんごめん、冗談だって!」
ふてくされる咲良を見て、綾瀬先輩は慌てて両手を振って笑っていた。
その後、咲良が差し出した風邪薬を飲むと、さすがに体力が限界だったのか、綾瀬先輩は驚くほどの速さで深い眠りへと落ちていった。
部屋に、静かな寝息だけが満ちていく。
咲良は静かに立ち上がり、最後に少しだけ気になって、綾瀬先輩の顔色を覗き込んだ。
額の汗は引き、さっきまでの痛々しい赤みも少しだけ和らいでいる。
よかった、と心の底から安堵のため息を漏らした、その瞬間だった。
布団から無造作に伸びてきた綾瀬先輩の手が、咲良の右手を、驚くほど正確に、そして優しく包み込んだ。
「……っ」
心臓が爆発するかと思った。
咄嗟に振りほどこうとしたけれど、寝ているはずの彼の指先には、確かな強さが込められていてびくともしない。
長い睫毛の奥にある瞳は閉じたままで、その表情は、まるで大切な宝物を絶対に離さないと誓う子供のように頑なだった。
繋がれた手のひらから、彼の生々しい体温がじんわりと伝わってくる。
そのせいで、咲良の頭は今日何度目かもわからない思考停止の限界を迎えてしまうのだった。



