「引き返すなら、本当に今のうちなんだけどな」
自分のローファーの爪先を見つめながら、私は本日何度目かもわからない独り言をこぼしていた。
そうして恐る恐るたどり着いた目的地を見上げ、私は思いきり遠い目をする。目の前にそびえ立っているのは、見上げるのも首が痛くなるようなタワー型の高層マンションだった。
「…………でかくない?」
おいおい、ちょっと待ってほしい。
これで一人暮らしって、高校生の身分としてさすがに色々とやばすぎやしないだろうか。
住む世界の次元が違いすぎて、思わず脳内で盛大なツッコミを入れてしまう。
そもそも、咲良がここにいること自体が不条理の極みだった。
屋上で海里先輩たちから事情を聞かされたとき、ほんの、本当にほんの少しだけ、あの無駄に明るい金髪の男が可哀想だと思ってしまったのだ。
だからといって、わざわざお見舞いに出向くなんていままでの咲良のキャラクターではないのだが。
「いや、別に好きとかそういう安易な話じゃなくて! なんかその、このまま入院されたり、万が一にも孤独死されたりしたらとか!私の寝覚めが悪くて後味悪いだけだし!」
誰も聞いていないエントランスの空気に向かって、咲良は必死に苦しい言い訳をまき散らしながら、自動ドアの向こうへと足を踏み入れた。
それにしても、とポケットの中の金属の塊に触れる。
なぜ彼が他人の家の鍵を常備しているのかは永遠の謎だけれど、屋上で海里先輩から手渡されたのは、紛れもない蓮先輩の部屋の合鍵だった。
あのとき、ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべながら「ごゆっくりね?」と言い放った海里先輩の顔を思い出すだけで、数時間が経過した今でも顔から火が出そうになる。
「そんなんじゃないですからっ!」と全力で抵抗した自分の声が脳内でリフレッシュされて、猛烈に恥ずかしい。
エレベーターで上層階へ昇り、内廊下の冷たい空気を吸いながら歩を進める。
『✕◯◯▲号室』。
その数字が刻まれたドアの前に立つと、咲良の心臓は嫌なリズムで跳ね始めた。
緊張で指先が少し震えるのを悟られないようにしながら、咲良は意を決してインターホンのボタンを押し込む。
ピンポーン、という無機質な音が静かな廊下に響いた。
……けれど、一向に中から人が出てくる気配がない。
十秒。三十秒。一分。
時間が経過するごとに、咲良の胸の奥で嫌な想像がじわじわと膨らんでいく。
もしかして、本当に部屋の奥で意識を失って倒れているんじゃないだろうか。
熱が上がりすぎて、助けを呼ぶこともできずに床にのたうち回っているのでは。
日常のすぐ隣にあるはずの『最悪の事態』が急に現実味を帯びてきて、咲良の背中に冷たい汗が伝った。
「……っ、あーもうっ!どうなっても知らないからねっ」
咲良はポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回した。
カチャリ、と心臓に悪いほど明瞭な音がして、鍵が開く。
「ごめんなさい……!」
誰に対するものかもわからない謝罪を小さく口にしながら、咲良はゆっくりと静寂が支配するドアを押し開けた。



