屋上のドアを閉めたあとも、咲良の心臓はしばらく落ち着かなかった。
夏の風を閉じ込めたみたいな廊下を、早足で歩く。
窓の外には、青空がどこまでも明るく広がっていて、校庭の隅の木々がやわらかく揺れている。
その穏やかな風景が、胸の内側の落ち着かなさとはひどくちぐはぐで、咲良は思わず唇をきゅっと結んだ。
" ……付き合えませんから "
さっき自分が言った言葉を、頭の中でもう一度繰り返す。
そうだ。
あれでよかった。
ちゃんと線を引いたんだ。
これ以上近づかせないように、ちゃんと言ったはずだ。
なのに、どうして。
" じゃあさ、好きな子を危ない奴から守る、心の優しい良い奴が……たまたま、ヤンキーだったら? "
あの一言だけが、どうしても耳に残ってしまう。
ふざけているみたいで、でも目だけは驚くほど真剣だった。
あのとき手首を掴まれた場所が、まだほんのり熱い気がして、咲良は慌てて自分の腕をさすった。
「……気のせい」
小さく呟く。
そう、気のせいだ。
あんなの、綾瀬先輩のいつもの軽口に決まっている。
まともに受け取るほうがおかしい。
そう思うのに、胸のどこかが妙にそわそわして、咲良はそのざわめきに気づかないふりをした。
それから、綾瀬蓮は学校に暫く姿を現さなかった。
次の日も。
その次の日も。
昼休みになっても、教室の前にあの金色の頭が現れることはなく、廊下が黄色い声でざわつくこともない。
最初の日、咲良は心の中で思いきり安堵した。
よかった、と思った。
やっと平和が戻った。
ようやく落ち着いて昼休みが過ごせる。
教室の前で騒がれたり、名前を呼ばれたり、無駄に注目を浴びたりしなくて済む。
それでいいはずだった。
いいはずなのに。
窓の外を見ながら、ふとした瞬間に思ってしまう。
" 今日は、来ないんだ … "
その小さな気づきに、自分で自分が少しだけ嫌になる。
来なくて当然なのに。
あんなに「来ないでください」と言っていたのは自分なのに。
なのに、廊下が静かすぎると、どこか拍子抜けしている自分がいる。
「……ないない」
咲良は心の中で首を振った。
こんなの、ただ慣れてしまっただけだ。
騒がしいものが急になくなると、少し変に感じる。
それだけ。
別に、寂しいとか、そんなのじゃない。
そのはずなのに。
「来ないねぇ、綾瀬先輩~」
昼休み、茉那がぽつりと呟いた。
教室にはお弁当の匂いが混ざっていて、窓から入る緩やかな風がカーテンを少しだけ揺らしている。
茉那は卵焼きを箸でつつきながら、にやにやと咲良を見た。
咲良はすぐに口を尖らせる。
「いや、これがもとの生活だったから」
「ふーん?」
「何?」
「でも、ちょっと寂しいんじゃないのー?」
からかうような声音に、咲良は即座に顔をしかめた。
「そんなわけないでしょ!」
「今、視線そらした」
「そらしてない」
「そらしたってー!」
「そらしてないですー」
「絶対そらした!」
茉那が楽しそうに身を乗り出してくる。
咲良はふいっと窓のほうを向いた。
――ほら、また。
自分でもわかるくらい、反応がわかりやすい。
こんなの、からかわれて当然だ。
「咲良、わかりやすーい」
「茉那がうるさいだけじゃん」
「へえへえ。で?綾瀬先輩のこと、ちょっとは気になってるんだ?」
「気になってません」
「じゃあ何で今、窓の外見たの?」
「空がどこまでも青いから」
「何それぇ~小説かなんかのタイトルー?」
茉那の笑い声が弾ける。
咲良はますますむっとした顔になりながら、お弁当のブロッコリーをつついた。
でも、そのとき胸の奥をよぎったのは、確かに綾瀬の笑顔だった。
にこにこしていて、明るくて、鬱陶しいくらいにまっすぐで。
太陽みたいに笑う不良。
そんな言葉が頭に浮かんでしまって、咲良はなんだか気まずくなった。



