一夜のあと、君に溺れる

そんなことをぼんやり思い出しつつ、仕事を始めた。

俺は実家の「料亭宮こし」で、料理人兼経営者として働いている。料亭宮こしの創業は明治時代だ。小さな料亭から代々引き継がれ、地元では少しばかり有名な老舗。家族経営であることには変わりないのだが、今では従業員も増え、経営体制もずいぶんと整ってきている。

「大ちゃーん、聞いたよー」

厨房で仕込みをしていると、ベテラン料理人の河田さんがガシッと肩を組んできた。

「何を聞いたんですか?」

「昨日朝帰りだったんだって?」

「あー……」

「杏子ちゃんの次は大ちゃんの結婚だねぇ」

「まー、そうなるといいですよねぇ」

「くわー、最近の若いもんは。もっと照れやがれ」

「河田さん、他の人にそういうこと言わないでくださいよ」

「おっ、照れてるのか?」

「違います。セクハラになるからですよ」

「おおっ、そりゃ危ないな。大ちゃんだけに言うわ」

「俺はいいのかよ」

思わずツッコんだ。河田さんは悪びれることもなく、ガッハッハと笑いながら背中をたたく。なにげに痛い。

朝帰りを広めたのはたぶん祖母だな。俺は未だに実家暮らしをしているし、実家には両親と祖父母もいる。つい最近までは姉も住んでいた。

家を出てもいいけれど、実家にいた方が職場が近いし、両親も特に干渉してこないから便利なのだ。家族といえどシェアハウスが近いかもしれない。

ていうか、朝帰りだからって相手が女性とは限らないだろうに。飲んだくれてただけかもしれないだろ。どうしてこう、決めつけるかな。

「ばーちゃん、朝帰りとか広めないでくれる?」

「大ちゃんももうすぐ結婚かと思うと寂しくてねぇ」

「いやいや、それとこれは違うわ。俺の沽券に関わるからさぁ」

「彼女と仲良くてええね」

「あー、その彼女とは別れたんだ」

半年前、付き合っていた彼女を家族に紹介したことがある。祖母は確実にその子を思い浮かべているけど……。

「そりゃ、寂しいねぇ」

「いや、うん、別に落ち込んでないから大丈夫だよ」

祖母は「ドンマイ」と言いながら俺の背を撫でてくれるものだから、何だか申し訳ない気持ちになってきた。

それなのに、数時間後には「大ちゃん彼女と別れたんだって」と従業員に話が広まっていた。祖母はすぐに俺をネタにする。咎めたら、「おしゃべりがばーちゃんの生き甲斐」とドヤ顔をされた。祖母には敵わない。