錆犬王の左腕

 翌日。勿論エヌナは錆犬王のもとへと重い足を引きずって向かっていた。
 正直、錆犬王には合わせる顔がない。それでも、錆犬王のもとへはどうしても行かなければならない気がした。

 ふと、錆犬王の洞窟が見えてきたところでエヌナはそこから反対側に見える〈命鉱の大山脈〉を振り返る。
 ゴヴニュの大地に実りと鍛冶技術を授け、文明を発展させてくれた偉大なる雄峰。ヲルカヌス神の化身。その麓に四国は並んで位置している。大山脈と四国から遠く離れたこの洞窟は、ゴヴニュ四国盆地を一望できた。

 特に目につくのはやはり〈命鉱の大山脈〉で。まるでその形は、肘から下の腕のよう——。

「は」

 そこまで思い至って、エヌナの口から間の抜けた声が漏れ出た。同時に、誰か(・・)の低い声が次々と脳裏に蘇る。

『私の本当の姿は大山脈よりも大きく立派で……』
『それ以上血濡れの武器を造るのなら、鉱物資源はもうあまりあげたくない』
『私はかつて、神だった』
『だが、今の私には左腕がない。あの左腕は、私の魂の半身。神格そのもの』
『左腕のない私なんて、ずる賢いただの狐狼(けもの)も同然。神じゃない』

 声が蘇ると共に、鼓動が大きく、速く高鳴った。

「まさか……」

 そこで不意に、ゴォン! という轟音の如き銅鑼(どら)の音が幾重にも重なって遠くから鳴り響き、エヌナの声を遮った。

 この銅鑼の音は——四国大戦、再開戦を示す音に違いなかった。

 とうとう四国が全面戦争に乗り出してしまったのだと、エヌナは焦燥に煽られて冷や汗が滲んだ。このままでは四国のいずれかの国が滅びてしまう。

「……ついに、また始まったのか」

 ふと、唸るような低い声がすぐそばで聞こえて、エヌナは振り向く。するといつの間にかすぐそこには、錆犬王の姿があった。
 エヌナは錆犬王の右腕がふと目に入って、無意識のうちにつらつらと頭に浮かんだことが口をついて出ていた。

「……ヲルカヌス神から授かった各国の四つの神器を破壊しよう。命鉱の大山脈が開かれていない今ならどの国も、あの神器から一月に一度生み出される武器しか持っていないはず」

 エヌナの突飛な発言に、錆犬王が目を丸くした。

「だが、人間にとっての武器ってのは、己の肉体や魂の一部なんだろ? それを取り上げるなんざ……」
「錆犬の言う通りだったんだよ。もう、この血で血を洗う戦争を終わらせるには、武器を置くしか……武器を無くすしかないんだ」

 エヌナは錆犬王に向かい合い、錆犬王の右腕を片手で掴む。

「それが、錆犬にはできる。だって、あなたの右腕はあらゆるものを錆び付かせることができる。武器だけじゃなくて、惨たらしい醜い戦争も。それは平和を生み出すことができる腕だ」

 エヌナは何を思考する余裕もなく、必死の形相で錆犬王に頭を下げた。

「お願い、錆犬。わたしに力を貸してほしい」
「……無理だ。私にはそんなこと、できない」

 錆犬王は一つ間を置いて、絞り出すように低い声を漏らす。

「人間たちから武器を取り上げれば……私は今以上に人間たちに嫌われる。きっともう二度と、必要とされなくなる。そんなことは……耐えられない」

 エヌナは弾かれたように顔を上げる。錆犬王は今までに見たことがないほどの、苦悶の表情を浮かべていた。

 己はまた間違えたのだと、反射的に悟った。

「そう、だよね——ごめんなさい。わたし、また間違えた」

 エヌナは戦場に向かって歩みだす。その背中を慌てた様子で錆犬が呼び止めた。

「おい、まさか……戦場に行く気か? やめておけ、今行けば死ぬぞ」
「……でも、行かないと」

 エヌナは揺るぎない眼差しで、まっすぐ遠くの戦場を見据える。

「だってわたしは、勇者だから——命鉱神(あなた)に選ばれたんじゃない。偽物でしかないけれど。それでもわたしは、勇者にならないと」

 もう、彼のことを傷つけたくない。もう、彼を傷つけさせたくない。
 ゆえにエヌナは〈勇者〉として、一人で行かなければ。

「さよなら——ヲルカヌス」

 彼の本当の名を、初めて呼ぶ。
 彼が、息を呑む気配がした。
 エヌナは一度も振り返ることなく、駆け出す。

「おい、待て。行くな——エヌナ!」