放課後の校庭は、春の風で少しだけ白く霞んでいた。
グラウンドの隅、使われなくなったサッカーゴールの横に、結城は寝転がって空を見ていた。
「またサボってる」
頭の上から声が落ちてくる。
見上げると、逆光の中に紺色のスカートが揺れていた。
「サボりじゃない。人生の余白を味わってる」
「はいはい」
呆れたように笑いながら、紗奈は彼の横に座った。肩が少し触れる。昔なら気にも留めなかった距離なのに、最近は妙に意識してしまう。
結城と紗奈は、同じアパートで育った。
幼稚園の頃から一緒で、親同士も仲が良い。朝起こしに行くのも、コンビニへ行くのも、試験勉強も、全部「いつものこと」だった。
だから周囲にはよく言われる。
——付き合ってるの?
そのたび二人は同時に否定する。
でも最近、そのタイミングが微妙にズレるようになっていた。
「……今日、告白された」
紗奈がぽつりと言った。
結城は空を見たまま「へえ」と返す。
「同じクラスの?」
「うん」
「で?」
「断った」
「ふーん」
平静を装った声。だが、胸の奥が勝手に熱くなる。
風が吹き、紗奈の髪が結城の腕に触れた。
「なんで断ったと思う?」
「知らね」
「鈍感」
その一言だけで、胸が少し痛くなる。
沈黙が落ちた。
遠くで野球部の金属音が響く。
結城はようやく身体を起こした。
紗奈は膝を抱え、前を向いている。横顔は昔と変わらないはずなのに、急に知らない女の子みたいに見えた。
「お前さ」
「なに」
「……大学、東京行くんだろ」
「たぶん」
「そっか」
その返事だけで終わるはずだった。
けれど紗奈は静かに言った。
「結城は?」
「地元かな」
「そっか」
今度は彼女が同じ返事をする。
それだけなのに、離れていく未来が急に現実になった。
小さい頃、泣きながら二人で帰った道。
夏祭りで迷子になった夜。
高校受験の日、無言で隣を歩いた朝。
全部、当たり前に続くと思っていた。
「……ねえ」
紗奈が小さく呼ぶ。
「もし私が東京行ったら、ちゃんと会いに来る?」
結城は笑おうとして、うまくできなかった。
「遠いだろ」
「じゃあ来ないんだ」
責める声じゃない。
なのに苦しくなる。
結城は少し黙ってから、低く言った。
「行くよ」
紗奈がこちらを見る。
「お前が寂しくて泣くかもしれないし」
「泣かないし」
「絶対泣く」
「泣かない」
言い合って、二人で吹き出した。
その笑い方まで昔と同じだった。
でも、笑い終わったあと。
紗奈は少しだけ真面目な顔になって、制服の袖を掴んだ。
「……結城」
「ん?」
「私、ずっと一緒にいるもんだと思ってた」
春の風が止まる。
その言葉は、幼馴染という関係の境界線を、静かに越えていた。
結城は何か言おうとして、言葉が出なかった。
代わりに、そっと紗奈の頭を軽く小突く。
「痛っ」
「難しいこと言うな」
「逃げた」
「逃げてない」
「逃げてる」
近い距離で見つめ合う。
昔から知っている顔。
でも今は、知らないくらい可愛かった。
結城は観念したようにため息をつく。
「……俺もだよ」
紗奈の目が、少しだけ見開かれる。
「離れるとか、考えてなかった」
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。
その影は昔みたいに並んでいたけれど、もうただの幼馴染ではいられないことを、二人とも知っていた。
雨の日だった。
窓を叩く雨音が、部屋の静けさを余計に際立たせている。
紗奈は結城のベッドに腰掛けたまま、濡れた髪をタオルで拭いていた。
「急に降りすぎ……」
制服のシャツは雨で少し透けていて、結城はまともに目を合わせられない。
「ドライヤー使えば」
「んー」
気のない返事。
けれど紗奈は立ち上がらず、じっとこちらを見ていた。
「……なに」
「いや」
彼女は小さく笑う。
「最近、結城ってすぐ目逸らすなーって」
「逸らしてない」
「逸らしてる」
図星だった。
幼馴染なのに、今さら女として意識するなんて遅すぎる。
でも、意識しない方が無理だった。
濡れた髪。
薄く赤い唇。
シャツ越しの柔らかいライン。
結城が黙っていると、紗奈はゆっくり近づいてきた。
ベッドが軋む。
「ねえ」
「……ん」
「触ってみたいって思ったこと、ある?」
耳元で囁かれ、息が止まりそうになる。
結城は喉を鳴らした。
「そういうこと聞くな」
「なんで?」
「困るから」
紗奈は少しだけ目を細める。
「困るってことは、あるんだ」
否定できなかった。
その沈黙だけで十分だったのか、彼女はくすっと笑う。
そして細い指で、結城のシャツの裾を軽く掴んだ。
「結城って、昔はこんなにドキドキしなかったのにな」
「……俺だって」
「してるんだ」
「してる」
正直に言うと、紗奈の頬が少し赤くなる。
雨音が強くなる。
二人とも動けない。
近すぎて、互いの呼吸が分かる距離。
紗奈はそっと結城の肩にもたれた。
柔らかい感触と体温が伝わって、理性が危うくなる。
「結城」
「なに」
「……キス、してみる?」
冗談みたいに軽い声。
でも震えていた。
結城は数秒迷ってから、そっと紗奈の顎に触れる。
昔から知っている顔なのに、今は息を飲むくらい綺麗だった。
唇が触れる直前、紗奈が目を閉じる。
その仕草だけで、胸がいっぱいになる。
結局、触れるだけの短いキスだった。
けれど離れたあと、紗奈は真っ赤な顔で笑う。
「……やば」
「お前が言い出したんだろ」
「でも、思ったより破壊力あった……」
そう言って彼女は照れ隠しみたいに結城の胸へ額を押し付けた。
結城は苦笑しながら、その濡れた髪をそっと撫でた。
部屋の明かりは小さな間接照明だけになっていた。
雨はまだ降り続いている。
結城の胸にもたれたまま、紗奈はしばらく黙っていた。
さっき触れた唇の感触が、まだ消えない。
「……変な感じ」
紗奈が小さく呟く。
「何年も一緒にいたのに、急に知らない人みたい」
「それ、俺も」
結城が答えると、紗奈は少しだけ笑った。
でもその目は真剣だった。
視線が絡む。
近づけば、また触れたくなる。
結城がそっと頬に手を添えると、紗奈は抵抗せず目を閉じた。
二度目のキスは、さっきより長かった。
柔らかい唇が重なり、離れて、また触れる。
紗奈の指が、ぎゅっと結城のシャツを掴む。
「……ん」
小さく漏れた声に、理性が揺れる。
けれど結城は無理に先へ進まなかった。
ただ大事に触れるように、髪を撫で、背中を抱き寄せる。
紗奈は赤くなったまま、結城の肩へ顔を埋めた。
「こんなの、反則……」
「お前が始めたんだろ」
「でも結城、優しいから余計ずるい」
雨音の中、二人はしばらく寄り添ったままだった。
幼馴染だった距離はもう戻れないくらい近くなっていたけれど、不思議と怖くはなかった。
その夜、二人は長い間、互いの体温を確かめるように抱き合っていた。
紗奈は結城の肩に額を預け、小さく息を吐く。
「……こんなふうになるなんてね」
「俺も思ってなかった」
結城が髪を撫でると、紗奈はくすぐったそうに目を細めた。
唇が触れるたび、鼓動が近くなる。
指先がそっと重なり、抱き寄せる腕に少し力が入る。
昔から知っている相手なのに、今は全部が新鮮だった。
「結城」
「ん?」
「優しくして」
その言葉に、結城は静かに頷く。
窓の外では雨が降り続いていた。
二人は言葉を交わしながら、ゆっくり距離を縮めていく。
焦るような熱ではなく、長い年月を埋めるみたいに、互いを大切に確かめ合う夜だった。
終。
グラウンドの隅、使われなくなったサッカーゴールの横に、結城は寝転がって空を見ていた。
「またサボってる」
頭の上から声が落ちてくる。
見上げると、逆光の中に紺色のスカートが揺れていた。
「サボりじゃない。人生の余白を味わってる」
「はいはい」
呆れたように笑いながら、紗奈は彼の横に座った。肩が少し触れる。昔なら気にも留めなかった距離なのに、最近は妙に意識してしまう。
結城と紗奈は、同じアパートで育った。
幼稚園の頃から一緒で、親同士も仲が良い。朝起こしに行くのも、コンビニへ行くのも、試験勉強も、全部「いつものこと」だった。
だから周囲にはよく言われる。
——付き合ってるの?
そのたび二人は同時に否定する。
でも最近、そのタイミングが微妙にズレるようになっていた。
「……今日、告白された」
紗奈がぽつりと言った。
結城は空を見たまま「へえ」と返す。
「同じクラスの?」
「うん」
「で?」
「断った」
「ふーん」
平静を装った声。だが、胸の奥が勝手に熱くなる。
風が吹き、紗奈の髪が結城の腕に触れた。
「なんで断ったと思う?」
「知らね」
「鈍感」
その一言だけで、胸が少し痛くなる。
沈黙が落ちた。
遠くで野球部の金属音が響く。
結城はようやく身体を起こした。
紗奈は膝を抱え、前を向いている。横顔は昔と変わらないはずなのに、急に知らない女の子みたいに見えた。
「お前さ」
「なに」
「……大学、東京行くんだろ」
「たぶん」
「そっか」
その返事だけで終わるはずだった。
けれど紗奈は静かに言った。
「結城は?」
「地元かな」
「そっか」
今度は彼女が同じ返事をする。
それだけなのに、離れていく未来が急に現実になった。
小さい頃、泣きながら二人で帰った道。
夏祭りで迷子になった夜。
高校受験の日、無言で隣を歩いた朝。
全部、当たり前に続くと思っていた。
「……ねえ」
紗奈が小さく呼ぶ。
「もし私が東京行ったら、ちゃんと会いに来る?」
結城は笑おうとして、うまくできなかった。
「遠いだろ」
「じゃあ来ないんだ」
責める声じゃない。
なのに苦しくなる。
結城は少し黙ってから、低く言った。
「行くよ」
紗奈がこちらを見る。
「お前が寂しくて泣くかもしれないし」
「泣かないし」
「絶対泣く」
「泣かない」
言い合って、二人で吹き出した。
その笑い方まで昔と同じだった。
でも、笑い終わったあと。
紗奈は少しだけ真面目な顔になって、制服の袖を掴んだ。
「……結城」
「ん?」
「私、ずっと一緒にいるもんだと思ってた」
春の風が止まる。
その言葉は、幼馴染という関係の境界線を、静かに越えていた。
結城は何か言おうとして、言葉が出なかった。
代わりに、そっと紗奈の頭を軽く小突く。
「痛っ」
「難しいこと言うな」
「逃げた」
「逃げてない」
「逃げてる」
近い距離で見つめ合う。
昔から知っている顔。
でも今は、知らないくらい可愛かった。
結城は観念したようにため息をつく。
「……俺もだよ」
紗奈の目が、少しだけ見開かれる。
「離れるとか、考えてなかった」
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。
その影は昔みたいに並んでいたけれど、もうただの幼馴染ではいられないことを、二人とも知っていた。
雨の日だった。
窓を叩く雨音が、部屋の静けさを余計に際立たせている。
紗奈は結城のベッドに腰掛けたまま、濡れた髪をタオルで拭いていた。
「急に降りすぎ……」
制服のシャツは雨で少し透けていて、結城はまともに目を合わせられない。
「ドライヤー使えば」
「んー」
気のない返事。
けれど紗奈は立ち上がらず、じっとこちらを見ていた。
「……なに」
「いや」
彼女は小さく笑う。
「最近、結城ってすぐ目逸らすなーって」
「逸らしてない」
「逸らしてる」
図星だった。
幼馴染なのに、今さら女として意識するなんて遅すぎる。
でも、意識しない方が無理だった。
濡れた髪。
薄く赤い唇。
シャツ越しの柔らかいライン。
結城が黙っていると、紗奈はゆっくり近づいてきた。
ベッドが軋む。
「ねえ」
「……ん」
「触ってみたいって思ったこと、ある?」
耳元で囁かれ、息が止まりそうになる。
結城は喉を鳴らした。
「そういうこと聞くな」
「なんで?」
「困るから」
紗奈は少しだけ目を細める。
「困るってことは、あるんだ」
否定できなかった。
その沈黙だけで十分だったのか、彼女はくすっと笑う。
そして細い指で、結城のシャツの裾を軽く掴んだ。
「結城って、昔はこんなにドキドキしなかったのにな」
「……俺だって」
「してるんだ」
「してる」
正直に言うと、紗奈の頬が少し赤くなる。
雨音が強くなる。
二人とも動けない。
近すぎて、互いの呼吸が分かる距離。
紗奈はそっと結城の肩にもたれた。
柔らかい感触と体温が伝わって、理性が危うくなる。
「結城」
「なに」
「……キス、してみる?」
冗談みたいに軽い声。
でも震えていた。
結城は数秒迷ってから、そっと紗奈の顎に触れる。
昔から知っている顔なのに、今は息を飲むくらい綺麗だった。
唇が触れる直前、紗奈が目を閉じる。
その仕草だけで、胸がいっぱいになる。
結局、触れるだけの短いキスだった。
けれど離れたあと、紗奈は真っ赤な顔で笑う。
「……やば」
「お前が言い出したんだろ」
「でも、思ったより破壊力あった……」
そう言って彼女は照れ隠しみたいに結城の胸へ額を押し付けた。
結城は苦笑しながら、その濡れた髪をそっと撫でた。
部屋の明かりは小さな間接照明だけになっていた。
雨はまだ降り続いている。
結城の胸にもたれたまま、紗奈はしばらく黙っていた。
さっき触れた唇の感触が、まだ消えない。
「……変な感じ」
紗奈が小さく呟く。
「何年も一緒にいたのに、急に知らない人みたい」
「それ、俺も」
結城が答えると、紗奈は少しだけ笑った。
でもその目は真剣だった。
視線が絡む。
近づけば、また触れたくなる。
結城がそっと頬に手を添えると、紗奈は抵抗せず目を閉じた。
二度目のキスは、さっきより長かった。
柔らかい唇が重なり、離れて、また触れる。
紗奈の指が、ぎゅっと結城のシャツを掴む。
「……ん」
小さく漏れた声に、理性が揺れる。
けれど結城は無理に先へ進まなかった。
ただ大事に触れるように、髪を撫で、背中を抱き寄せる。
紗奈は赤くなったまま、結城の肩へ顔を埋めた。
「こんなの、反則……」
「お前が始めたんだろ」
「でも結城、優しいから余計ずるい」
雨音の中、二人はしばらく寄り添ったままだった。
幼馴染だった距離はもう戻れないくらい近くなっていたけれど、不思議と怖くはなかった。
その夜、二人は長い間、互いの体温を確かめるように抱き合っていた。
紗奈は結城の肩に額を預け、小さく息を吐く。
「……こんなふうになるなんてね」
「俺も思ってなかった」
結城が髪を撫でると、紗奈はくすぐったそうに目を細めた。
唇が触れるたび、鼓動が近くなる。
指先がそっと重なり、抱き寄せる腕に少し力が入る。
昔から知っている相手なのに、今は全部が新鮮だった。
「結城」
「ん?」
「優しくして」
その言葉に、結城は静かに頷く。
窓の外では雨が降り続いていた。
二人は言葉を交わしながら、ゆっくり距離を縮めていく。
焦るような熱ではなく、長い年月を埋めるみたいに、互いを大切に確かめ合う夜だった。
終。
