〜摂食障害という名の、透明な檻に閉じ込められて~

三ヶ月の入院生活が始まった病棟は、楓にとって全く未知の、そして過酷な世界だった。

精神科病棟の日常は、その日に割り振られる担当看護師の性格によって、天国にも地獄にも変わった。

「楓ちゃん、体調はどう? 辛かったら、いつでもお姉さんに言ってね」

そう言って、いつも目線を合わせて髪を撫でてくれる優しい看護師さんが担当の日は、楓の心もいくらか救われた。ナースコールを押す指も軽くなり、お母さんが会いに来てくれたときのような安心感に包まれる。

「今日のご飯、少しだけでも頑張れそうかな? スープだけでも大丈夫だよ」

「……うん。お姉さんが担当の日は、なんか、ちょっとだけ頑張れる気がする」

「ふふ、無理はしなくていいからね。楓ちゃんのペースでいこう」

しかし、毎朝の看護師の交代で、あの「厳しい看護師さん」の姿が見えた瞬間、楓の心臓はキュッと縮み上がった。

「楓ちゃん、体重測定よ。はい、動かない。……また減ってるじゃない。どうするつもり?」

感情を排した冷たい声、カルテをパチンと閉じる無機質な音。

その看護師さんが担当の日は、部屋の隅で毛布を頭からかぶり、声を押し殺して涙を流すのが常だった。

(どうしてそんなに怒るの……? わたし、悪いことしたのかな。ただ、食べられないだけなのに……)

そんな絶望の日々の中、閉鎖病棟の薄暗いホールで、楓はある少女と出会った。

自分と同じくらいの年齢で、同じように痩せ細った腕をした女の子。

名前は、凛りん。

「あ、あの……こんにちわ……」

楓が消え入りそうな声で話しかけると、少女は少し驚いたように大きな目を瞬かせた。

「あ、こんにちわ……はじめまして」

お互いに少しずつ言葉を交わすうちに、二人が全く同じ「摂食障害」という病気と闘っていることが分かった。

その瞬間の安堵感は、言葉では言い表せないほどだった。

大人たちにはどれだけ説明しても分かてもらえなかった「食べたいのに体が拒絶する恐怖」を、凛だけは「分かるよ」と頷いてくれた。

「楓ちゃんも、ご飯の時間が一番怖くて吐き気がしちゃう?」

「うん……! お皿が目の前に来るだけで、喉がギュッてなって、涙が出てくるの」

「そうだよね。私も同じ。サボってるわけじゃないのに、みんな怒るから辛いよね」

「凛ちゃんにそう言ってもらえて、私、一人じゃないんだって初めて思えたよ……!」

二人はすぐに意気投合し、毎日ホールのベンチで語り合った。

「あの厳しい看護師さん、本当に怖いよね」

「ねー、私も昨日怒られちゃった」

そんな他愛のない愚痴から、病気になる前の学校の話、好きだったアイドルの話……。

それまで、ただ時計の針が進むのを待つだけだった退屈で苦痛な時間が、凛のおかげで、毎日が待ち遠しく充実した日々に変わっていっていった。

心が少しずつ開き始めると、他の患者たちとの交流も生まれた。

週に何度かあるレクリエーションの時間、楓は年の離れたおじさんやおばさんたちと一緒にカードゲームをした。

「楓ちゃん、次はどれを出すんだい?」

「あ、じゃあこれ! おじさん、負けないからね!」

「ハハハ、こりゃ一本取られたな。楓ちゃんは本当にトランプが強いや」

「もう、おじさんが手加減するからだよ! 次は本気でやってね!」

かつての「一軍少女」としての社交性が、少しずつ顔をのぞかせる。

病棟の大人たちと笑顔でおしゃべりができるようになり、周囲からは一見、順調に回復しているようにも見えた。

しかし、その笑顔は楓の必死の「演じ込み」でもあった。

(笑っていなきゃ、みんなに迷惑をかけちゃう。暗い顔をしてたら『まだ治ってない』って思われて、もっとここに閉じ込められちゃうかもしれない。だから、良い子でいなきゃ。元気な楓ちゃんでいなきゃ……)

心が少しずつ開き始め、周囲と笑顔で接すれば接するほど、内面のドロドロとした暗い部分とのギャップに楓は苦しんだ。

(みんなは私が楽しそうにしてるって言う。でも、心の中は全然笑ってない。お腹が空いて死にそうなのに、食べ物を見るだけで吐き気がするこの地獄から、誰も私を救い出してくれないのに……!)

心はほぐれても、体は残酷なまでに拒絶を続けていた。

形のあるもの、固形物は、どうしても喉を通らない。

お皿の上のごはんを見つめるだけで、喉の奥がキュッと閉まり、どうしても飲み込むことができなかった。

そんなある日、あの厳しい看護師さんが、食事のトレイを前に固まっている楓の前に立ちはだかった。

その目はいつになく冷ややかだった。

「楓ちゃん、もういい加減に食べないと、鼻から管を入れて栄養液を注入するからね」

「そんなの嫌! 絶対に嫌!!」

「嫌なら食べなさい。これは脅しじゃないのよ。あなたの命を守るための治療なの」

「食べたいよ……っ、私だって食べたいのに、体が言うこと聞かないんだもん!!」

「口を動かさなければ、いつまで経っても同じよ。自分の甘えと向き合いなさい」

その言葉は、楓の心に深く突き刺さった。

恐怖と、理不尽さへの怒りが一気に爆発する。

「なんで……っ! 私だって、食べたいのにーー!!」

ベッドのシーツを涙で濡らしながら、楓は叫んだ。

「どうすればいいか、わからないよ……っ! 食べようとしても、出ちゃうんだもん……!」

涙を流して訴える娘の叫びも、医療の現実の前には届かなかった。

数日後、処置室のベッドに縛り付けられるようにして、経鼻栄養管の装着が行われた。

鼻の穴から、喉の奥を通り、食道、そして胃へと、容赦なく硬いプラスチックの管がねじ込まれていく。

「いたい……っ、ほんと、痛い……! う、う……つらいよ……っ」

「暴れないで! 動くと余計に痛いし、粘膜が傷ついちゃうから!」

「やだ、抜いて……! お願いだから抜いてぇ!!」

「ダメよ、じっとしてなさい! すぐ終わるから!」

激しい嘔吐感と、鼻の奥が裂けるような激痛に、楓は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら悶絶した。

そんな楓を上から見下ろし、厳しい看護師さんは淡々と、言い聞かせるように告げた。

「ほら、言ったでしょ。言うこと聞かないからよ」

冷徹な声が病室に響く。

「それが嫌なら、ちゃんとごはんを食べて」

「………………」

楓はもう、何も言い返す気力がなかった。

ただ、喉と鼻を貫く異物感と激痛に耐えながら、天井を見つめて涙を流し続けるしかなかった。

その心は、完全に心を閉ざしてしまった。

(なんで……なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの……?)

顔の右側にテープで無造作に固定された、忌々しいプラスチックの管。

それが喉の奥を常に刺激し、唾を飲み込むたびに異物感と鈍い痛みが走る。

鏡を見るまでもなく、今の自分の姿がどれほど惨めで、醜く、怪物じみているかが分かった。

(推しに可愛いって思われたくて始めたことなのに。なんで私は今、ベッドに縛られて、鼻から管を遠交されて、家畜みたいに栄養を流し込まれてるの……? どこで間違えたの? あのSNSの言葉を気にしなきゃよかったの?
もう、元の私には戻れない。こんなプラスチックの管をぶら下げた私なんて、誰も可愛いって言ってくれない。もう全部終わりだ。私の人生、全部めちゃくちゃになっちゃった……)

生きていること自体が恥ずかしく、屈辱的だった。

自分の意志がすべて剥ぎ取られ、ただの「生かすべき物体」として扱われているような絶対的な孤独。

怒る気力さえも異物感の苦痛に吸い取られ、楓の心は深い、深い闇の底へと完全に沈没していった。

それから3ヶ月が経ち、退院の日を迎えた。

しかし、それは決して「治った」からではなかった。

結局、固形物を食べる治療はうまくいかないままだった。

ただ、鼻からの栄養液のおかげで、体重の数字だけが機械的に「少しだけ」戻ったに過ぎない。

「楓、やっとお家に帰れるね。お部屋、綺麗に掃除して待ってたんだよ」

迎えに来た母親が、無理に作った明るい声で話しかけてくる。

「……うん。ありがとう、お母さん」

「これからはお家でゆっくり治していこうね。楓のペースでいいから」

「……そうだね」

病院の自動ドアを出るとき、楓の心は少しも晴れていなかった。

案の定、自宅に戻っても食事は摂れず、体力が落ちては再びあの苦しい病棟へ戻るという、つらい入退院を何度も繰り返すことになった。

ある日の退院診察の際、医師は両親を静かに呼び出した。楓がいない診察室で、医師は重い口調で語りかけた。

「お父さん、お母さん。楓ちゃんのこの病気は、単に『お腹が空かない』という身体的なものではなく、心因性の可能性が非常に高いです。何か強いストレスや、言葉の傷が引き金になっていると考えられます。これからは、ご家庭でも本人の心の動きに細心の注意を払って、焦らずに見守ってあげてください」

「先生、具体的に私たちはあの子にどう接すればいいのでしょうか……。何を言っても傷つけてしまうようで、怖くて……」

「まずは『食べること』を強要しないことです。彼女の存在そのものを認め、安心できる居場所を作ってあげてください。時間はかかりますが、それが一番の近道です」

「……はい。分かりました……。あの子の心を、私たちが守ってあげなきゃいけないんですね……」

医師の言葉に、母親は深くうつむき、自分の手をぎゅっと握りしめて涙をこらえた。父親もまた、重い沈黙の中でただ頷くしかなかった。

一度は誰もが羨むような輝きの中にいた楓。彼女の本当の闘いは、病棟の外でも、そして彼女自身の心の中でも、いまだに続いていた。