〜摂食障害という名の、透明な檻に閉じ込められて~

カチャリ、と静かな病室に、金属のフォークが皿に触れる小さな音が響いた。

 手術から数週間後。

 ベッドの上に置かれたトレイには、かつて楓が大好きだった、湯気を立てるふっくらとしたハンバーグと、つやつやとした白米が並んでいた。

 数年前なら、これを見ただけで喉の奥が恐怖で閉じていた。けれど今、楓の胸にあるのは、怯えではなく、お腹の底から湧き上がる純粋な「空腹感」だった。

「楓、無理しなくていいからね。ゆっくり、一口だけ……」

「うん……ちょっと怖いけど、でも、お腹が空いてるの」

「そう、焦らなくていいのよ。ママがずっと側にいるからね」

「……うん。いただきます」

 傍らで見守る母親が、祈るように両手を握りしめている。

 楓は小さく頷くと、フォークで小さく切り分けたハンバーグを、震える手で口元へと運んだ。そっと、唇を開く。

 数年ぶりに、鼻の管から流し込まれる無機質な液体ではなく、温かい「食べ物」が舌の上に乗った。

(あ……)

じゅわリと広がるお肉の旨味、甘辛いソースの香り。

恐る恐る、喉の奥へと送り込む。

かつてあれほど楓を苦しめ、拒絶反応を起こしていたはずの喉が、今は驚くほど滑らかに、自然に、そのひと塊を胃へと送り届けてくれた。

何の抵抗もなく、するりと。

「……おいしい」

「おいしいよ、お母さん……っ!」

「本当に……? ちゃんと、通ったの……?」

ぽつりと溢したその一言と同時に、楓の目から大粒の涙がぽたぽたと皿の上に落ちた。

ハンバーグの味がする。

ご飯の味がする。人間として、当たり前に生きて、当たり前に美味しいと感じられる。

その奇跡のような事実に、胸が締め付けられるように熱かった。

「お母さん、美味しいよ……! 私、飲み込めたよ……!」

「よかった……っ、本当によかったね、楓……!」

「ずっと苦しかったね、やっと食べられたね……!」

「うん……っ、味がするの。すごく温かいの……っ!」

母親は楓を抱きしめ、二人は声を上げて泣いた。

数年間に及ぶ、長くて暗い冬のトンネルを、楓は自分の足でようやく抜け出したのだ。

普通に食べるって、こんなに簡単で、こんなに幸せなことだったんだ。

今まで私が流してきた血も涙も、鼻から入れられた管の痛みも、全部、私の心が弱いからじゃなかった。

でも、普通になればなるほど、身体が健康を取り戻せば取り戻すほど、あの暗闇の中で一緒に手を取り合っていた紬ちゃんのことが、遠い世界の出来事みたいに思えてきて……それが、たまらなく怖いの。

私はこうして、お母さんに抱きしめられて美味しいものを食べている。

その瞬間も、紬ちゃんはあの冷たい地面の下にいるんだ。

私だけが、こんな風に光に満ちた世界に戻ってきちゃって、本当に良かったのかな……

回復していく身体とは裏腹に、生き残った者としての罪悪感が、静かに楓の胸をチクリと刺す。

それでも、喉を滑り落ちたハンバーグの温かさは、確かに楓に「生きている」という実感を与えていた。

さらに数ヶ月が経ち、季節はすっかり移り変わっていた。

退院の日を迎えた楓は、お父さんとお母さんにお願いして、あの駅前の百貨店へと向かった。

「楓、本当にあの場所に行くのかい? 無理はしなくていいんだぞ」

「ううん、お父さん。私、行かなきゃいけないの。ちゃんと、紬ちゃんに報告したいから」

「……そうか。分かった。一緒に行こう」

エレベーターに乗り、目指したのは最上階。あの、夕暮れの屋上だった。

あの日の悲鳴や警備員の怒号はもうない。広々とした青空の下、家族連れやカップルが穏やかに過ごす、ありふれた日常の光景がそこにはあった。

楓は、一人でゆっくりとあのフェンスの側へと歩み寄った。

新しく補修された柵の向こうには、どこまでも続く街並みが広がっている。

そよ風が、健康的な丸みを取り戻し始めた楓の頬を優しく撫でた。

目を閉じると、今でも耳の奥で、紬の最後の声が聞こえる気がする。

『楓ちゃん、ごめんね』

「……ううん、紬ちゃん。謝らなきゃいけないのは、私の方だよ」

(紬ちゃん、私ね、手術をしたんだよ)

楓は心の中で、静かに語りかけた。

ポケットの中で、今はもう動くことのない紬のSNSのアカウントをそっと想う。

(私の病気、心のせいじゃなかったの。食道と胃の間に問題があったみたい、手術して治ったよ。……だから私、もうご飯を食べられるようになったんだよ)

もし、もっと早く気づいていれば。

二人でここから飛び降りるような恐れしい計画を話すことも、手を離してしまうこともなかったかもしれない。

その悔しさと消えない傷は、きっと一生、楓の心に残る。

けれど、楓はもう目を背けなかった。

(紬ちゃん。私は、これからもずっと、紬ちゃんのこと忘れないよ。……だから、紬ちゃんの分も、私、ちゃんと美味しいものをいっぱい食べて、笑って、一生懸命生きるね)

「紬ちゃん、見ててね。私、あなたの分まで、この世界をちゃんと見ていくから」

ゆっくりと目を開けた楓の瞳には、かつての「少女」だった頃の眩しさとは違う、苦しみを乗り越えた人間だけが持つ、深く強い光が宿っていた。

「楓、そろそろ行こうか」

「お腹も空いてきただろう。今日の夜は、楓の好きなものを何でも作ってあげるからね」

「うん、ありがとう。私、お母さんの作った唐揚げが食べたいな」
「ええ、お腹いっぱい作りましょうね」

後ろからお父さんとお母さんが優しく声をかける。

「うん!」

楓は振り返ると、二人の元へしっかりと地面を踏みしめて歩き出した。

頭上から降り注ぐあたたかな太陽の光が、前を向いて歩き出す少女の未来を、まっすぐに照らし出していた。