土俵の外の恋

弥生は涙を拭きながら、無理やり笑顔を作ろうとする。
その姿を見て、愛斗の胸の中に長い間抑えていた想いが、堰を切ったように溢れ出した。もう、隠していることなどできない。このままこの家にいて、彼女がこれ以上傷つくのを見続けるなんて、自分には耐えられない。
「俺なら、こんなこと絶対にしないのに」
低く、震える声が口をついて出た。弥生ははっとして、涙で濡れた瞳を上げ、愛斗の顔を見つめた。
「……え?」
「俺なら、毎日毎日、奥様のことを大事にして、笑顔にして、誰よりも幸せにしてみせる。料理だって、どんなものだって、心を込めて作ってくれたものなら、何でも嬉しく食べる。悲しませたり、泣かせたりなんて、絶対にしない。俺じゃ……俺じゃだめですか?」
真っ直ぐに自分を見つめる愛斗の瞳には、嘘も偽りもない、ただ一途な想いだけが宿っていた。弥生は言葉を失い、ただ胸元に染みたスープの熱さよりも、心の奥がふわりと熱くなるのを感じた。だがすぐに、彼女は自分の立場を思い出し、ゆっくりと目を伏せた。
「ごめんなさい……愛斗くんの気持ちは、とても嬉しい。でも、私は桐谷吾郎の妻なの。親方の妻で、この部屋のおかみさんなの。だから……だめなの、ごめんなさい」
小さな声でそう言うと、弥生はそれ以上何も言わず、汚れた畳を拭き始めた。愛斗もそれ以上は何も言えず、ただ彼女の側に座り、黙って手伝うことしかできなかった。
次の日、愛斗は休みをもらって自分のアパートでゆっくりと過ごしていた。昨日の夜のことが頭から離れず、弥生のことばかり考えていたとき、ふいに玄関のチャイムが鳴った。誰だろうと思いながらドアを開けると、そこに立っていたのは弥生だった。
て声を上げた愛斗の目に飛び込んできたのは、涙でぐしょぐしょになった顔と、頬や目の周りに浮いた青黒いあざだった。弥生は声も出せない様子で、ただ肩を震わせて泣いている。愛斗は慌てて彼女の手を引き、家の中へと招き入れた。
「どうしたんですか、そのあざ……一体何があったんです?」
「あの人に……されたの」
消え入りそうな小さな声でそう言った瞬間、愛斗の胸の奥がカッと熱くなり、怒りで体が震えた。
「許せない……俺が絶対に許さない。なんでこんな優しい人に、こんなひどいことができるんだ」
愛斗が言葉を詰まらせるように言うと、弥生はふらりと一歩前に出て、彼の胸元に顔を押し当てた。そして、上を向いて彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「愛斗くんが好きなの。旦那なんてもういらない。私が本当に欲しかったのは、ずっとあなただったの」
自分がずっと胸に秘めていた想いを、弥生の口から聞いた瞬間、愛斗の心は嬉しさでいっぱいになり、目の前が明るくなるようだった。
「俺も……俺もずっと弥生さんが好きでした。だから、昨日もあんなふうに言ってしまったんです。ずっと、ずっと前から、あなただけを見ていました」
「ありがとう……愛斗くん」
もう一度二人はゆっくりと顔を寄せ合い、柔らかく唇を重ねた。短く口づけを交わして一度離れたとき、愛斗は少しだけはにかんだように言った。
「もう一回……いいですか?」
弥生がこくりと頷くのを待って、愛斗はそっと抱き寄せ、今度は長く、深く、互いの心を確かめるように口づけを重ねた。弥生は体中がぽかぽかと温かくなるのを感じ、心の奥底から嬉しさが込み上げてくるのを、はっきりと感じていた。
そのとき、ぐうっと小さな音が二人の間に響いた。愛斗のお腹が鳴ったのだ。弥生は涙のあとが残る顔に、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。