桐谷部屋の一角に建つ親方の住まいで、末山愛斗は朝から晩まで雑用をこなしていた。
相撲の稽古をするわけではないが、部屋の掃除や買い出し、来客の応対、時には力士たちの世話まで、頼まれたことは何でも引き受ける。まだ二十二歳と若いながら、気が利いて誠実な愛斗は、部屋の誰からも信頼されていた。
だが彼の心の中には、一つだけ誰にも言えない想いが秘められていた。それは、親方・桐谷吾郎の妻である弥生のことだった。
弥生は四十を過ぎてもなお柔らかな美しさをたたえ、いつも静かで、誰に対しても優しい女性だった。
だが愛斗は、彼女が夫からどれほど冷たく扱われているかを、この家で働くようになってからずっと見つめてきた。
吾郎は部屋の運営と相撲協会の付き合いにかまけ、家にいるときも機嫌が悪いことが多く、弥生に声をかけるといえば、文句か命令ばかりだった。
その日も、夜も更けた頃にようやく吾郎が家に帰ってきた。
玄関先で待っていた弥生が、柔らかい笑みを浮かべて頭を下げる。
「おかえりなさいませ」
だが吾郎は弥生の姿など目に入っていないように、無言で荷物を彼女の腕に押しつけると、靴を脱いでそのまま奥へと上がっていった。弥生は黙って荷物を受け取り、愛斗と二人で静かに後に続いた。
やがて弥生が心を込めて作った夕食を、居間のテーブルに並べた。
旬の魚をじっくりと煮付けたものに、体の芯から温まる野菜のスープ、ほかにも季節の煮物や香の物が並ぶ。弥生は吾郎の正面に料理を置き、小さな声で言った。
「お召し上がりくださいお疲れでしょう、ゆっくりどうぞ」
吾郎は無言で箸を手に取り、煮付けの皿に伸ばした瞬間、ふいに手を払うように動かした。カチャンという音とともに、皿はテーブルから滑り落ち、煮崩れた魚と煮汁が畳の上にべちゃりと飛び散った。
「なんで魚なんだ」
低い、怒気を含んだ声が部屋に響く。
弥生は顔から血の気が引くのを感じ、慌てて頭を下げた。
「お嫌いでしたら……ごめんなさい、次からは別のものを用意します」
「謝れば済むと思ってるのか。お前が作ったものなんざ、俺の口に合うわけがない床に落としたものは、自分で拾って食べろ」
冷たい言葉に、弥生は体を震わせた。言い返すことも、抵抗することもできず、ただ唇を噛みしめていると、それまで黙って脇に立っていた愛斗が、一歩前に踏み出した。
「親方、いくらなんでもそれはやり過ぎではないですか。奥様は毎日、親方のために心を込めてお料理を作っていらっしゃるんです」
愛斗の言葉に、吾郎は鋭い視線を向けたが、それより早く弥生が愛斗の袖をつかみ、小さく首を横に振った。
「いいのよ愛斗くん、あなたは黙ってて。悪いのは全部、私なんだから」
そう言って、弥生は畳に落ちた魚を手で拾い上げ、汚れた部分を少しだけ除いて、ゆっくりと口に運んだ。
愛斗はその姿を見て、胸の奥が締めつけられるように痛かった。
自分がこの家にいるからといって、何もできない自分の無力さが、歯がゆくてたまらなかった。
弥生が涙をこらえながら魚を飲み込んだ瞬間、吾郎は自分の前に置いてあったスープの椀を手に取り、中身を弥生の胸元にぶちまけた。熱いスープが着物に染み込み、湯気が立ち上る。
弥生はびくりと肩を震わせ、下を向いたまま声を殺して泣き始めた。
吾郎はそんな彼女の姿を見ても何も感じないように、不快そうに鼻を鳴らすと、「こんな家にはいられるか」と吐き捨て、玄関へと向かった。荒々しくドアを開けて外に出ると、車のエンジン音が響き、やがて遠くへと走り去っていくのが聞こえた。
相撲の稽古をするわけではないが、部屋の掃除や買い出し、来客の応対、時には力士たちの世話まで、頼まれたことは何でも引き受ける。まだ二十二歳と若いながら、気が利いて誠実な愛斗は、部屋の誰からも信頼されていた。
だが彼の心の中には、一つだけ誰にも言えない想いが秘められていた。それは、親方・桐谷吾郎の妻である弥生のことだった。
弥生は四十を過ぎてもなお柔らかな美しさをたたえ、いつも静かで、誰に対しても優しい女性だった。
だが愛斗は、彼女が夫からどれほど冷たく扱われているかを、この家で働くようになってからずっと見つめてきた。
吾郎は部屋の運営と相撲協会の付き合いにかまけ、家にいるときも機嫌が悪いことが多く、弥生に声をかけるといえば、文句か命令ばかりだった。
その日も、夜も更けた頃にようやく吾郎が家に帰ってきた。
玄関先で待っていた弥生が、柔らかい笑みを浮かべて頭を下げる。
「おかえりなさいませ」
だが吾郎は弥生の姿など目に入っていないように、無言で荷物を彼女の腕に押しつけると、靴を脱いでそのまま奥へと上がっていった。弥生は黙って荷物を受け取り、愛斗と二人で静かに後に続いた。
やがて弥生が心を込めて作った夕食を、居間のテーブルに並べた。
旬の魚をじっくりと煮付けたものに、体の芯から温まる野菜のスープ、ほかにも季節の煮物や香の物が並ぶ。弥生は吾郎の正面に料理を置き、小さな声で言った。
「お召し上がりくださいお疲れでしょう、ゆっくりどうぞ」
吾郎は無言で箸を手に取り、煮付けの皿に伸ばした瞬間、ふいに手を払うように動かした。カチャンという音とともに、皿はテーブルから滑り落ち、煮崩れた魚と煮汁が畳の上にべちゃりと飛び散った。
「なんで魚なんだ」
低い、怒気を含んだ声が部屋に響く。
弥生は顔から血の気が引くのを感じ、慌てて頭を下げた。
「お嫌いでしたら……ごめんなさい、次からは別のものを用意します」
「謝れば済むと思ってるのか。お前が作ったものなんざ、俺の口に合うわけがない床に落としたものは、自分で拾って食べろ」
冷たい言葉に、弥生は体を震わせた。言い返すことも、抵抗することもできず、ただ唇を噛みしめていると、それまで黙って脇に立っていた愛斗が、一歩前に踏み出した。
「親方、いくらなんでもそれはやり過ぎではないですか。奥様は毎日、親方のために心を込めてお料理を作っていらっしゃるんです」
愛斗の言葉に、吾郎は鋭い視線を向けたが、それより早く弥生が愛斗の袖をつかみ、小さく首を横に振った。
「いいのよ愛斗くん、あなたは黙ってて。悪いのは全部、私なんだから」
そう言って、弥生は畳に落ちた魚を手で拾い上げ、汚れた部分を少しだけ除いて、ゆっくりと口に運んだ。
愛斗はその姿を見て、胸の奥が締めつけられるように痛かった。
自分がこの家にいるからといって、何もできない自分の無力さが、歯がゆくてたまらなかった。
弥生が涙をこらえながら魚を飲み込んだ瞬間、吾郎は自分の前に置いてあったスープの椀を手に取り、中身を弥生の胸元にぶちまけた。熱いスープが着物に染み込み、湯気が立ち上る。
弥生はびくりと肩を震わせ、下を向いたまま声を殺して泣き始めた。
吾郎はそんな彼女の姿を見ても何も感じないように、不快そうに鼻を鳴らすと、「こんな家にはいられるか」と吐き捨て、玄関へと向かった。荒々しくドアを開けて外に出ると、車のエンジン音が響き、やがて遠くへと走り去っていくのが聞こえた。

