「――城ヶ崎(じょうがさき)さん、このデータの修正、今日中に頼めるだろうか」
「はい! 喜んで!」
冷徹と名高い我が社の副社長、神崎千明(かんざき ちあき)様から直々に書類を渡され、私は背筋をピンと伸ばした。
ふち無しのシルバーフレーム眼鏡。その奥にある切れ長の瞳は、いつ見ても氷のようだ。
完璧なダークネイビーのスリーピーススーツ、クラッシックな小紋柄のネクタイ。ディンプルがあしらわれた結び目一つ緩まないその姿は、歩く彫刻とまで言われている。
(……くぅぅ、たまらん!! 今日も最高のシルバーフレーム! 知性の塊!)
私の心臓は、恐怖ではなく別の意味で激しくステップを刻んでいた。
そう、私には誰にも言えない狂気の癖――『メガネ着脱フェチ』という業(ごう)がある。
彼が仕事モード全開で眼鏡をかけている時の、人を寄せ付けない冷酷な美しさ。それだけでも白飯が三杯はいける。だが、私の本番(?)はそこではない。
(ああっ、くる……! そろそろ、いつものアレがくるはず……!)
残業時間も夜の八時を回り、オフィスには私と副社長の二人きり。
デスクに戻った副社長が、ふぅ、と小さく息を吐いた。
線が細く美しい指先が、眼鏡のテンプル(つる)へと掛けられる。
(きたあああああああ!!!)
ゆっくりと耳の後ろから外される眼鏡。
その瞬間、前髪がわずかにハラリと落ち、さっきまで冷酷だった目元が、少しだけ眠そうに、無防備に緩むのだ。
さらに、親指と人差し指で眉間をきゅっと揉む、あの仕草。
(国宝!! 世界遺産に登録すべき!! あのオンとオフのギャップ、あの目元の色気は一千万ボルトの破壊力――ッ!!)
声に出さないよう、奥歯をガチガチと手元の資料で隠しながら、私はその「至高の瞬間」を網膜に焼き付けていた。
よし、今夜の栄養補給は完了。さあ仕事を終わらせよう。
そう思った、次の瞬間だった。
「――そんなにじっと見つめられると、仕事にならないんだけどな」
「ひゃいっ!?」
気づけば、私のデスクのすぐ前に、副社長が立っていた。
しかも。
眼鏡を外したままの、あの無防備で最高にセクシーな顔のままで。
「あ、あの、副社長……眼鏡は……?」
「ん? 目が疲れたから外した。……それより城ヶ崎さん。君、俺が眼鏡を外すたびに、すごく……嬉そうな顔をしてるよね」
綺麗な唇が、意地悪そうに弧を描く。
社内一冷徹なはずの男の顔に、見たこともない肉食獣のような笑みが浮かんでいた。
「な、何のことでしょうか……っ」
「嘘はダメだよ。心拍数まで上がってる。……もしかして、期待してる?」
すっと長い指が私の顎を掬い上げ、至近距離でその「緩んだ目元」が私を覗き込む。
いつもはレンズの向こうにあるはずの、長い睫毛がすぐそこにある。
「俺の眼鏡を外した顔、そんなに好き?」
「――っ!!」
頭の中が真っ白になった。
バレていた。私が毎日、心の中で彼の眼鏡姿とその落差に狂喜乱舞していたことが、すべて。
「あ、あの、これはその、単なる……パーツグラフィーというか、学術的な関心でして……!」
「ふうん。じゃあ、もっと近くで観察させてあげるよ。……明日、土曜日だけど空いてる?」
断る隙など大人の財力と権力でねじ伏せる、有無を言わせぬハイスペックな微笑み。
こうして私は金曜日のオフィスで、完璧なる副社長の「罠」に囚われることになったのだった。
――翌土曜日。
指定されたのは、都内の隠れ家風のお洒落なカフェだった。
「待たせたかな、結衣(ゆい)」
背後からかけられた声に振り向いた私は、危うく持っていたスマホを落としそうになった。
「ふ、ふく、しゃちょ……!?」
「プライベートだから、千明でいいよ」
そこにいたのは、いつもの隙のないスーツ姿の副社長ではなかった。
ゆるっとした黒のサマーニットに、少し崩した前髪。
そして何より――プライベート用の、黒ぶちのボストン眼鏡をかけていた。
(ちょっと待って!!! 黒ぶち!? シルバーフレームじゃなくて、お洒落な黒ぶち眼鏡!? しかもおでこが少し見えてて可愛い系にシフトしてるって何事!?)
心の中の私がスタンディングオベーションで叫び散らかす。
「どうしたの? 固まって」
「い、いえ! その、いつもと雰囲気が違いすぎて……」
「そう? 君が眼鏡好きだって言うから、今日は特別に、一番お気に入りのやつにしてきたんだけど」
千明さんは楽しそうに笑うと、私の手をごく自然に引いて店内の奥の席へとエスコートした。
美味しいパンケーキを食べ、他愛もない会話を交わす。
仕事中の冷徹さはどこへやら、彼は驚くほど優しく、私の話を笑顔で聞いてくれた。
けれど、私の視線は、どうしても彼の目元に吸い寄せられてしまう。
(あ、今、眼鏡のブリッジを中指でちょっと押し上げた……。あの仕草も最高……)
「結衣、さっきから眼鏡ばっかり見てるね」
千明さんが、ふっと吐息を漏らすように笑った。
「あ、すみません! やっぱり変ですよね、こんな……変なフェチ」
恥ずかしくなってうつむくと、対面の席から彼がすっと立ち上がり、私の隣の席へと移動してきた。
一気に縮まる距離。心臓がうるさい。
「変なんかじゃないよ。むしろ、君のその視線に、俺がどれだけ煽られてたか分かってないでしょ」
「え……?」
千明さんは、そっと自分の黒ぶち眼鏡に手をかけた。
ゆっくりと、耳の後ろからテンプルが外される。
前髪が揺れ、レンズの遮るものがなくなった彼の、少し熱を帯びた瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「社内でね、君が俺をじっと見てくるのが嬉しかった。でも、仕事中だから手が出せない。眼鏡を外せば、君がもっと赤くなるのを知ってて、わざと君の前で何度も外してたんだ」
「わざと……!? 確信犯だったんですか!?」
驚愕する私に、千明さんは眼鏡をテーブルに置くと、両手で私の頬を包み込んだ。
眼鏡のない彼の顔は、オフィスでの「冷徹な副社長」でも、さっきまでの「優しいお兄さん」でもない。
完全に、一人の男の独占欲に満ちていた。
「そうだよ。君のその可愛いフェチを利用してでも、俺を意識させたかった。……結衣、俺は君が思っている以上に、君に溺れてる」
「千明、さん……」
「これからは、俺が眼鏡を外すのも、かけるのも、その手を緩めるのも……全部、君の前だけでしかやらない。だから、俺だけを見て」
至近距離で見つめる、眼鏡を外した彼の目元には、甘い熱がたっぷりと宿っていた。
私の大好きなギャップの、さらにその奥にある、底なしの溺愛。
「……もう、眼鏡があってもなくても、千明さんから目が離せません」
(熱い、私の中で真っ赤な熱い血が駆け巡るのが手に取るように分かる。いやいや、そんなカッコいい感じじゃないから? まるでコメディ漫画のように頭から音を立て湯気が噴き出している画が浮かんだ)
私が真っ赤になりながらそう呟くと、彼は満足そうに目を細め、優しく、けれど深く、私の唇を塞いだ。
(レンズの向こうの独占欲、想定外に甘すぎて……もう、逃げられそうにありません!)
〈終〉
「はい! 喜んで!」
冷徹と名高い我が社の副社長、神崎千明(かんざき ちあき)様から直々に書類を渡され、私は背筋をピンと伸ばした。
ふち無しのシルバーフレーム眼鏡。その奥にある切れ長の瞳は、いつ見ても氷のようだ。
完璧なダークネイビーのスリーピーススーツ、クラッシックな小紋柄のネクタイ。ディンプルがあしらわれた結び目一つ緩まないその姿は、歩く彫刻とまで言われている。
(……くぅぅ、たまらん!! 今日も最高のシルバーフレーム! 知性の塊!)
私の心臓は、恐怖ではなく別の意味で激しくステップを刻んでいた。
そう、私には誰にも言えない狂気の癖――『メガネ着脱フェチ』という業(ごう)がある。
彼が仕事モード全開で眼鏡をかけている時の、人を寄せ付けない冷酷な美しさ。それだけでも白飯が三杯はいける。だが、私の本番(?)はそこではない。
(ああっ、くる……! そろそろ、いつものアレがくるはず……!)
残業時間も夜の八時を回り、オフィスには私と副社長の二人きり。
デスクに戻った副社長が、ふぅ、と小さく息を吐いた。
線が細く美しい指先が、眼鏡のテンプル(つる)へと掛けられる。
(きたあああああああ!!!)
ゆっくりと耳の後ろから外される眼鏡。
その瞬間、前髪がわずかにハラリと落ち、さっきまで冷酷だった目元が、少しだけ眠そうに、無防備に緩むのだ。
さらに、親指と人差し指で眉間をきゅっと揉む、あの仕草。
(国宝!! 世界遺産に登録すべき!! あのオンとオフのギャップ、あの目元の色気は一千万ボルトの破壊力――ッ!!)
声に出さないよう、奥歯をガチガチと手元の資料で隠しながら、私はその「至高の瞬間」を網膜に焼き付けていた。
よし、今夜の栄養補給は完了。さあ仕事を終わらせよう。
そう思った、次の瞬間だった。
「――そんなにじっと見つめられると、仕事にならないんだけどな」
「ひゃいっ!?」
気づけば、私のデスクのすぐ前に、副社長が立っていた。
しかも。
眼鏡を外したままの、あの無防備で最高にセクシーな顔のままで。
「あ、あの、副社長……眼鏡は……?」
「ん? 目が疲れたから外した。……それより城ヶ崎さん。君、俺が眼鏡を外すたびに、すごく……嬉そうな顔をしてるよね」
綺麗な唇が、意地悪そうに弧を描く。
社内一冷徹なはずの男の顔に、見たこともない肉食獣のような笑みが浮かんでいた。
「な、何のことでしょうか……っ」
「嘘はダメだよ。心拍数まで上がってる。……もしかして、期待してる?」
すっと長い指が私の顎を掬い上げ、至近距離でその「緩んだ目元」が私を覗き込む。
いつもはレンズの向こうにあるはずの、長い睫毛がすぐそこにある。
「俺の眼鏡を外した顔、そんなに好き?」
「――っ!!」
頭の中が真っ白になった。
バレていた。私が毎日、心の中で彼の眼鏡姿とその落差に狂喜乱舞していたことが、すべて。
「あ、あの、これはその、単なる……パーツグラフィーというか、学術的な関心でして……!」
「ふうん。じゃあ、もっと近くで観察させてあげるよ。……明日、土曜日だけど空いてる?」
断る隙など大人の財力と権力でねじ伏せる、有無を言わせぬハイスペックな微笑み。
こうして私は金曜日のオフィスで、完璧なる副社長の「罠」に囚われることになったのだった。
――翌土曜日。
指定されたのは、都内の隠れ家風のお洒落なカフェだった。
「待たせたかな、結衣(ゆい)」
背後からかけられた声に振り向いた私は、危うく持っていたスマホを落としそうになった。
「ふ、ふく、しゃちょ……!?」
「プライベートだから、千明でいいよ」
そこにいたのは、いつもの隙のないスーツ姿の副社長ではなかった。
ゆるっとした黒のサマーニットに、少し崩した前髪。
そして何より――プライベート用の、黒ぶちのボストン眼鏡をかけていた。
(ちょっと待って!!! 黒ぶち!? シルバーフレームじゃなくて、お洒落な黒ぶち眼鏡!? しかもおでこが少し見えてて可愛い系にシフトしてるって何事!?)
心の中の私がスタンディングオベーションで叫び散らかす。
「どうしたの? 固まって」
「い、いえ! その、いつもと雰囲気が違いすぎて……」
「そう? 君が眼鏡好きだって言うから、今日は特別に、一番お気に入りのやつにしてきたんだけど」
千明さんは楽しそうに笑うと、私の手をごく自然に引いて店内の奥の席へとエスコートした。
美味しいパンケーキを食べ、他愛もない会話を交わす。
仕事中の冷徹さはどこへやら、彼は驚くほど優しく、私の話を笑顔で聞いてくれた。
けれど、私の視線は、どうしても彼の目元に吸い寄せられてしまう。
(あ、今、眼鏡のブリッジを中指でちょっと押し上げた……。あの仕草も最高……)
「結衣、さっきから眼鏡ばっかり見てるね」
千明さんが、ふっと吐息を漏らすように笑った。
「あ、すみません! やっぱり変ですよね、こんな……変なフェチ」
恥ずかしくなってうつむくと、対面の席から彼がすっと立ち上がり、私の隣の席へと移動してきた。
一気に縮まる距離。心臓がうるさい。
「変なんかじゃないよ。むしろ、君のその視線に、俺がどれだけ煽られてたか分かってないでしょ」
「え……?」
千明さんは、そっと自分の黒ぶち眼鏡に手をかけた。
ゆっくりと、耳の後ろからテンプルが外される。
前髪が揺れ、レンズの遮るものがなくなった彼の、少し熱を帯びた瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「社内でね、君が俺をじっと見てくるのが嬉しかった。でも、仕事中だから手が出せない。眼鏡を外せば、君がもっと赤くなるのを知ってて、わざと君の前で何度も外してたんだ」
「わざと……!? 確信犯だったんですか!?」
驚愕する私に、千明さんは眼鏡をテーブルに置くと、両手で私の頬を包み込んだ。
眼鏡のない彼の顔は、オフィスでの「冷徹な副社長」でも、さっきまでの「優しいお兄さん」でもない。
完全に、一人の男の独占欲に満ちていた。
「そうだよ。君のその可愛いフェチを利用してでも、俺を意識させたかった。……結衣、俺は君が思っている以上に、君に溺れてる」
「千明、さん……」
「これからは、俺が眼鏡を外すのも、かけるのも、その手を緩めるのも……全部、君の前だけでしかやらない。だから、俺だけを見て」
至近距離で見つめる、眼鏡を外した彼の目元には、甘い熱がたっぷりと宿っていた。
私の大好きなギャップの、さらにその奥にある、底なしの溺愛。
「……もう、眼鏡があってもなくても、千明さんから目が離せません」
(熱い、私の中で真っ赤な熱い血が駆け巡るのが手に取るように分かる。いやいや、そんなカッコいい感じじゃないから? まるでコメディ漫画のように頭から音を立て湯気が噴き出している画が浮かんだ)
私が真っ赤になりながらそう呟くと、彼は満足そうに目を細め、優しく、けれど深く、私の唇を塞いだ。
(レンズの向こうの独占欲、想定外に甘すぎて……もう、逃げられそうにありません!)
〈終〉



