第1話 – 6ページ目:高級な扉の向こうの怒り
昼下がり。雨はすっかり上がっていたが、街はまだ濡れていた。
ミヤは早足で駅から家へと向かっていた。スクールバッグを右手に持ち、周囲を見ることなく、まっすぐ前だけを見据えて歩く。ネオンサインの光が歩道に落ち、彼女の影を不格好に長く伸ばしていた。
家に着くと、彼女は「ただいま」も言わずに中へ入った。使用人たちの横を素通りし、まっすぐ階段へ向かう。
中年の女性使用人が、静かな声で言った。
「おかえりなさいませ、ミヤお嬢様。」
ミヤは何も答えなかった。
彼女の足音が木製の階段に響く。速く、緊張した、怒りをはらんだ足音だった。
母は居間で緑茶を飲んでいた。顔を上げ、ミヤの表情をじっと見つめる。
「ミヤ、どうしたの?」
ミヤは立ち止まり、手すりに手をかけて振り返った。
「別に…ただ疲れてるだけ。」
その声は、いつもより大きく響いていた。
母は数秒間娘を観察すると、そっと湯呑みを置いて立ち上がった。
「ただ疲れてるだけなら、そんな顔しないでしょう。」
ミヤは唇を噛みしめ、黙り込んだ。
母が数歩、近づく。近すぎず、しかし確かに距離を詰めて。
「話したくなければ、無理に話さなくていい。でも、全部ひとりで抱え込まないで。」
ミヤは床を見つめたまま、何も言えなかった。そして振り返り、自室へと歩いていった。ドアが静かに閉まる。
彼女の部屋は広かった。大きなベッド、本棚、そして東京の街を一望できる窓。
しかし、そこは静かだった。
ミヤはベッドの端に腰を下ろした。スマートフォンをバッグから取り出し、また置いた。
今日の言葉が、頭の中で繰り返される。
「中身がゼロ」
その言葉がまだ耳の奥に残っていた。
どうして、見知らぬ男の言葉がこれほどまでに気になるのか。
どうして、あの一言がこれほど胸に突き刺さるのか。
彼女は背を枕に預け、天井を見つめた。
「この男…どうしてあんなことを言ったんだ?」
一時間後、ドアの向こうから声がした。
「ミヤ、夕食よ。」
母の声だった。いつも通り、穏やかに。
ミヤは答えない。
「ミヤ?」
「…後で行く。」
母の足音が遠ざかっていく。
ミヤは立ち上がり、窓辺へ歩いていった。眼下には街が広がっている。無数の灯り、無数の人々、無数の人生。
彼女は思う。
「みんな…どこへ向かっているんだろう。」
あのカフェが思い浮かんだ。
灰色の瞳のあの青年が。
皆の前で彼女に言ったあの言葉が――
「中身がゼロ」。
ミヤは笑った。喜びの笑みではない。そこには苦さがあった。
しかし、胸の奥には何かが芽生えていた。
怒りでもない。
悲しみでもない。
それは、どちらかと言えば――
「…もう一度、会いたい。」
