第3話 – 7ページ目:来なかった誰かのための詩
午後11時18分 – 上野・陸橋
列車が陸橋の下を通過した。
その轟音は大きく響いたけれど、イロにとっては、ただ遠くの微かな振動でしかなかった。音ではなかった。
彼は冷たい手すりを握っていた。
視線は街の灯りへと向けられている。水の上やビルの窓に、光が砕けて散っていた。
ミヤの便箋は、まだコートのポケットの中だった。
彼はそれを開いてはいなかった。
返事も、まだ書いていなかった。
風が川の方から吹き上がる。
イロは、一瞬だけ目を閉じた。
それから、誰に向けてというよりも、自分自身に向けて、静かに言葉を紡いだ。
「わたしにはなにもない あなたでいつぱいだ
ふたつのせかいをとりかへし あなただけを」
その声は、風に消えた。
数秒の沈黙。
それから、もっと静かな声で。
「まだ…返事はできない。」
間。
「でも…」
彼は目を開けた。
空を見上げる。
雲っていた。星は、どこにも見えなかった。
「すぐ、ちゃんと伝える。」
一羽の鳥が、陸橋の上を横切った。
また、別の列車の音。
イロは、手すりから手を離した。
ポケットを軽く押さえ、確かめるように。
そして、静かに陸橋を下り始めた。
誰も彼を待ってはいなかった。
誰も彼を呼びかけもしなかった。
しかし、今回は違っていた。
初めて――自分の背後に、簡単に手放せない何かが残されているように感じた。
