優朔side
記者会見当日の朝
昨夜は脳裏を去らない張り詰めた思考のせいで、まともな睡眠は取れなかった
ふと壁の時計へと目を向ける
針は午前7時を少し回ったところを指していた
遮光カーテンの隙間から差し込む光に導かれるように窓の外を見上げると、世界は皮肉なほどに美しい青空で満ちてい
こんな日に限って、これ以上ないほどに晴れ渡るなんてな……
乾いた自嘲が胸の奥をかすめた
新調したスーツに袖を通し、鏡の前でネクタイの結び目をきつく締め直す
これまで大きな授賞式や公式の場で幾度となく着てきたはずの衣装
それなのに、今朝のファブリックはやけに重く、呼吸が苦しくなるほど窮屈に感じた
これから数時間後、剥き出しの悪意が渦巻くあのステージへ立たされるのだと考えれば、防衛本能が身体を強張らせるのも無理はない
サイドテーブルの上に置いたスマートフォンは、朝一番から絶え間なく震え、画面を大量の通知で明滅させている
もちろん、ロックを解除して中身を見る気なんてさらさらない
偏見と憶測に満ちた文字の羅列を見たところで、何一つ良いことなどないと痛いほど分かっているからだ
『会見が終わるまで、SNSは絶対に開くな』
『ネットのニュースも、ワイドショーの画面もいっさい目に入れるな』
『今はただ、自分たちの言葉を届けることだけに全神経を注げ』
事務所の法務部や黒瀬さんから、耳にタコができるほど叩き込まれた鉄則
その通りだと思った
だから俺は、画面を下にしてスマートフォンを乱暴に伏せた
——その時だった
背後から、躊躇いのない柔らかな腕がしなやかに伸び、俺の胴へと回される
背中に伝わる、愛おしい確かな体温
空間に溶け出す、聞き慣れた清廉な匂い
「……優朔」
耳元で囁かれたその低く落ち着いた声だけで、ガチガチに強張っていた全身の肩の力が、嘘のようにスッと抜けていくのが分かった
僕はゆっくりと身体を反転させ、腕の中の彼女を見つめた
「……起きてたんだ、梓」
「そりゃ起きるよ」
梓は濡れた睫毛を震わせ、どこか困ったような、いじらしい笑みを浮かべた
「今日がみんなにとって、どれだけ大事な日か分かってるもん」
彼女の視線が、俺の胸元のネクタイへと向けられ、小さく形の良い眉が寄せられる
「ほら、やっぱり。少し曲がってる」
「え……そう?」
「じっとしてて」
梓は当然の権利を主張するように俺の正面に立ち、細い指先を器用に動かして、ネクタイの歪みを丁寧に整え始めた
その淀みのない所作は、まるで何年も前からこうして朝を共にしてきたかのように、あまりにも自然で、深く胸に染み入る
至近距離で見つめるそのプロフィールは、どんな過酷な最前線に立っている時でも、悔しいくらいに綺麗だと思った
「……緊張、してる?」
ネクタイのノットを綺麗に整え終えた梓が、真っ直ぐに俺の瞳を覗き込んできた
僕は少しだけ考えるように視線を彷徨わせ、それから、自嘲を込めて小さく苦笑した
「……してるよ」
取り繕う言葉など見つからず、ただ正直な本音だけを打ち明ける
「人生で一番、めちゃくちゃに緊張してる」
アイドルという過酷なサバイバルを勝ち抜いて、もう随分と長い時間が経つ
五万人以上の大歓声が渦巻くドームのステージにだって何度も立ってきたし、生放送の大型特番のセンターにだって臆せず臨んできた
何万人もの人間の視線を一身に浴びる空間には、とっくに身体が馴染んでいるはずだった
それなのに——
これから向かうあの会見場の方が、過去のどのステージよりも遥かに恐ろしかった
一瞬の沈黙、たった一言の言葉選び
そのすべてが命取りになり、グループの、そして仲間の未来をすべて変えてしまう
そんな誤魔化しの利かない戦場だからだ
けれど、梓は俺の情けない本音を聞いても、決して綺麗事の励ましで笑ったりはしなかった
ただ静かに、すべてを受け止めるように深く深く頷いてみせる
「そっか……」
たった、それだけの一言
だけど、その気取らない簡潔な言葉が、今の俺にはどんな大層な激励よりも妙に優しく、心底から安心できた
無理に前を向かせようとする言葉より、今の俺には彼女のその等身大な寄り添いが必要だったんだ
「でもね」
梓は少しだけ背伸びをして、俺のスーツの襟元を優しくポンポンと叩いた
「優朔なら、絶対に大丈夫だよ」
「……なんの根拠があって言ってるのさ」
少しだけ口元を緩めて問い返すと、彼女からは間髪入れずに即答が返ってきた
「あるよ、明確な根拠」
迷いのない、凛とした強い瞳
「だって私は、誰よりも近くで知ってるもん。神城優朔が、どれだけ誠実で、どれだけ強い人か」
真っ直ぐに僕の核心を射抜くその言葉に、胸の奥を重く押し潰していた焦燥感が、目に見えて軽くなっていくのが分かった
本当に、この人には敵わない
たった数言の、飾り気のない本音だけで、壊れそうだった僕のプライドを完璧に救い出してくれるのだから
梓は満足そうに微笑むと、さらに一歩踏み込んで、首元へと優しく背伸びをした
——チュッ
触れるだけの、ほんの一瞬の拙い口づけ
秒数にすれば一秒にも満たない
けれど、僕の心に戦う覚悟を宿すには、それだけで十分すぎるほどの熱量だった
「……行ってらっしゃい、優朔」
鼓膜に染み渡る優しい声に、今度は心からの自然な笑みがこぼれた
さっきまで身体を縛り付けていた暗澹たる重苦しさは、もうどこにも残っていない
「……ん、行ってくる」
愛おしさを噛み締めながら、梓の白い頬へとそっと手のひらを添え、もう一度だけ、彼女の華奢な身体を両腕で強く抱きしめた
腕の中に収まる、小さな身体
けれど、命の最前線で戦う彼女の魂は、この世界の誰よりも気高く、強い
その確かな温もりと心音を、これから始まる戦いの盾にするように、俺は深く胸の奥へと刻みつけた
今向かう場所は、間違いなく泥沼の戦場だ
容赦なく牙を剥いてくる記者たち
手のひらを返して冷徹な目を向ける世論
有象無象の悪意が飛び交うSNS
あらゆる理不尽と正面から向き合い、戦うことになる
だけど、僕にはもう、恐れるものなんて何一つない
魂の底から安堵できる、確かな帰る場所があるから
どんな嵐が吹き荒れようとも、笑顔で俺の無事を待っていてくれる人が、あの扉の向こうにいるから
ただそれだけの事実が、一人の男をどこまでも強くさせるのだと知った
ゆっくりと、彼女の温もりから身体を離す
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、気を付けてね」
梓は、いつもの裏表のない、最高の笑顔で見送ってくれた
その眩しい笑顔を最後の網膜に焼き付け、俺は意を決して、玄関の重いドアを開け放った
『黒騎士』のメンバーとして、命を懸けて夢を共にしてきた仲間を信じ抜くために
そして——
暗闇のどん底で震えている、大切な奏の居場所を、俺たちの手で絶対に取り戻すために
俺は眩い青空の下へと足を踏み出し、決戦の地である会見会場へと向かった
記者会見当日の朝
昨夜は脳裏を去らない張り詰めた思考のせいで、まともな睡眠は取れなかった
ふと壁の時計へと目を向ける
針は午前7時を少し回ったところを指していた
遮光カーテンの隙間から差し込む光に導かれるように窓の外を見上げると、世界は皮肉なほどに美しい青空で満ちてい
こんな日に限って、これ以上ないほどに晴れ渡るなんてな……
乾いた自嘲が胸の奥をかすめた
新調したスーツに袖を通し、鏡の前でネクタイの結び目をきつく締め直す
これまで大きな授賞式や公式の場で幾度となく着てきたはずの衣装
それなのに、今朝のファブリックはやけに重く、呼吸が苦しくなるほど窮屈に感じた
これから数時間後、剥き出しの悪意が渦巻くあのステージへ立たされるのだと考えれば、防衛本能が身体を強張らせるのも無理はない
サイドテーブルの上に置いたスマートフォンは、朝一番から絶え間なく震え、画面を大量の通知で明滅させている
もちろん、ロックを解除して中身を見る気なんてさらさらない
偏見と憶測に満ちた文字の羅列を見たところで、何一つ良いことなどないと痛いほど分かっているからだ
『会見が終わるまで、SNSは絶対に開くな』
『ネットのニュースも、ワイドショーの画面もいっさい目に入れるな』
『今はただ、自分たちの言葉を届けることだけに全神経を注げ』
事務所の法務部や黒瀬さんから、耳にタコができるほど叩き込まれた鉄則
その通りだと思った
だから俺は、画面を下にしてスマートフォンを乱暴に伏せた
——その時だった
背後から、躊躇いのない柔らかな腕がしなやかに伸び、俺の胴へと回される
背中に伝わる、愛おしい確かな体温
空間に溶け出す、聞き慣れた清廉な匂い
「……優朔」
耳元で囁かれたその低く落ち着いた声だけで、ガチガチに強張っていた全身の肩の力が、嘘のようにスッと抜けていくのが分かった
僕はゆっくりと身体を反転させ、腕の中の彼女を見つめた
「……起きてたんだ、梓」
「そりゃ起きるよ」
梓は濡れた睫毛を震わせ、どこか困ったような、いじらしい笑みを浮かべた
「今日がみんなにとって、どれだけ大事な日か分かってるもん」
彼女の視線が、俺の胸元のネクタイへと向けられ、小さく形の良い眉が寄せられる
「ほら、やっぱり。少し曲がってる」
「え……そう?」
「じっとしてて」
梓は当然の権利を主張するように俺の正面に立ち、細い指先を器用に動かして、ネクタイの歪みを丁寧に整え始めた
その淀みのない所作は、まるで何年も前からこうして朝を共にしてきたかのように、あまりにも自然で、深く胸に染み入る
至近距離で見つめるそのプロフィールは、どんな過酷な最前線に立っている時でも、悔しいくらいに綺麗だと思った
「……緊張、してる?」
ネクタイのノットを綺麗に整え終えた梓が、真っ直ぐに俺の瞳を覗き込んできた
僕は少しだけ考えるように視線を彷徨わせ、それから、自嘲を込めて小さく苦笑した
「……してるよ」
取り繕う言葉など見つからず、ただ正直な本音だけを打ち明ける
「人生で一番、めちゃくちゃに緊張してる」
アイドルという過酷なサバイバルを勝ち抜いて、もう随分と長い時間が経つ
五万人以上の大歓声が渦巻くドームのステージにだって何度も立ってきたし、生放送の大型特番のセンターにだって臆せず臨んできた
何万人もの人間の視線を一身に浴びる空間には、とっくに身体が馴染んでいるはずだった
それなのに——
これから向かうあの会見場の方が、過去のどのステージよりも遥かに恐ろしかった
一瞬の沈黙、たった一言の言葉選び
そのすべてが命取りになり、グループの、そして仲間の未来をすべて変えてしまう
そんな誤魔化しの利かない戦場だからだ
けれど、梓は俺の情けない本音を聞いても、決して綺麗事の励ましで笑ったりはしなかった
ただ静かに、すべてを受け止めるように深く深く頷いてみせる
「そっか……」
たった、それだけの一言
だけど、その気取らない簡潔な言葉が、今の俺にはどんな大層な激励よりも妙に優しく、心底から安心できた
無理に前を向かせようとする言葉より、今の俺には彼女のその等身大な寄り添いが必要だったんだ
「でもね」
梓は少しだけ背伸びをして、俺のスーツの襟元を優しくポンポンと叩いた
「優朔なら、絶対に大丈夫だよ」
「……なんの根拠があって言ってるのさ」
少しだけ口元を緩めて問い返すと、彼女からは間髪入れずに即答が返ってきた
「あるよ、明確な根拠」
迷いのない、凛とした強い瞳
「だって私は、誰よりも近くで知ってるもん。神城優朔が、どれだけ誠実で、どれだけ強い人か」
真っ直ぐに僕の核心を射抜くその言葉に、胸の奥を重く押し潰していた焦燥感が、目に見えて軽くなっていくのが分かった
本当に、この人には敵わない
たった数言の、飾り気のない本音だけで、壊れそうだった僕のプライドを完璧に救い出してくれるのだから
梓は満足そうに微笑むと、さらに一歩踏み込んで、首元へと優しく背伸びをした
——チュッ
触れるだけの、ほんの一瞬の拙い口づけ
秒数にすれば一秒にも満たない
けれど、僕の心に戦う覚悟を宿すには、それだけで十分すぎるほどの熱量だった
「……行ってらっしゃい、優朔」
鼓膜に染み渡る優しい声に、今度は心からの自然な笑みがこぼれた
さっきまで身体を縛り付けていた暗澹たる重苦しさは、もうどこにも残っていない
「……ん、行ってくる」
愛おしさを噛み締めながら、梓の白い頬へとそっと手のひらを添え、もう一度だけ、彼女の華奢な身体を両腕で強く抱きしめた
腕の中に収まる、小さな身体
けれど、命の最前線で戦う彼女の魂は、この世界の誰よりも気高く、強い
その確かな温もりと心音を、これから始まる戦いの盾にするように、俺は深く胸の奥へと刻みつけた
今向かう場所は、間違いなく泥沼の戦場だ
容赦なく牙を剥いてくる記者たち
手のひらを返して冷徹な目を向ける世論
有象無象の悪意が飛び交うSNS
あらゆる理不尽と正面から向き合い、戦うことになる
だけど、僕にはもう、恐れるものなんて何一つない
魂の底から安堵できる、確かな帰る場所があるから
どんな嵐が吹き荒れようとも、笑顔で俺の無事を待っていてくれる人が、あの扉の向こうにいるから
ただそれだけの事実が、一人の男をどこまでも強くさせるのだと知った
ゆっくりと、彼女の温もりから身体を離す
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、気を付けてね」
梓は、いつもの裏表のない、最高の笑顔で見送ってくれた
その眩しい笑顔を最後の網膜に焼き付け、俺は意を決して、玄関の重いドアを開け放った
『黒騎士』のメンバーとして、命を懸けて夢を共にしてきた仲間を信じ抜くために
そして——
暗闇のどん底で震えている、大切な奏の居場所を、俺たちの手で絶対に取り戻すために
俺は眩い青空の下へと足を踏み出し、決戦の地である会見会場へと向かった


