マンションのロビーを飛び出してからの私は、自分でも驚くほどのスピードで動いていた
降下するエレベーターの鏡の中で手早く髪を一つにまとめる
陽貴くんが機転を利かせて手配してくれていたタクシーの後部座席で、揺れに耐えながら最低限のメイクを滑り込みで終わらせる
スマートフォンのロックを解除して時間を確認するたびに、「嘘、本当に間に合わない……!」
と声にならない悲鳴が漏れた
何から何まで、完全に陽貴くんの計算通りのせいだ
いや。最後の最後で、彼の体温に流されかけて抵抗をやめてしまった私にも責任はあるのだけれど
でも絶対に、あの人は私の焦る反応を見て心底楽しんでいたに違いない
今朝のあの意地悪な微笑みを思い出した瞬間、抑えていた熱がぶわっと一気に顔へ込み上げてくる
「っ……もう、本当に……」
私はカッカと火照る額を手のひらで押さえながら、深いため息を吐き出した
バックミラー越しに運転手さんから不審そうな視線を投げかけられ、慌てて窓の外の流れる景色へと視線を逃がす
……ダメだ、今は考えたら負け
邪念を振り払うように自分に強く言い聞かせているうちに、見慣れた大病院の白い建物が視界に飛び込んできた
「ありがとうございました!」
料金を支払い、タクシーのドアが開いた瞬間から爆速で職員専用の通用口へと滑り込み、そのままロッカー室へと直行する
「はぁ、はぁっ……」
上がった息を整える間もなく、私服のボタンを外してハンガーへ掛け、何百回と繰り返してきた慣れた手つきで紺色のスクラブへと着替えていく
ロッカーの裏に貼られた鏡に自分の姿を映した
……よし、どこからどう見ても、いつもの凛とした看護師の顔だ
さっきまで自宅のベッドの中で、トップアイドルに翻弄されて蕩けた声を漏らしていた人間とは、逆立ちしても思えない
私は気合を入れるように、両手で軽く自分の頬を叩いた
「よし」
一瞬でプライベートの感情を心の奥底へ仕舞い込み、私は引き締まった表情でICUへと向かった
ナースステーションの自動ドアをくぐった、まさにその瞬間だった
回診の準備をしていた後輩の林くんと、ばっちり目が合う
「一ノ瀬さん、おはようございます」
「おはよ……」
「ずいぶんギリギリの出勤ですね。珍しいじゃないですか」
「……ちょっと、朝から色々あってね」
弁解する私の横から、クスクスと意地の悪い笑い声が聞こえてきた
振り返ると、電子カルテを見ながら立つ梓の姿があった
「ほんと、珍しいねぇ」
「ちょっと、梓……」
「紗凪がこんなタイムリミット寸前に滑り込んでくるなんて、一体何年ぶりの珍事?」
「……だから、色々と事情があったの」
「へぇ〜? 事情ねぇ?」
完全にすべてを察して、面白がっている顔だった
絶対に見透かされている
私はこれ以上の追及を逃れるように視線を逸らし、自分の電子カルテの画面を開いた
すると、梓が足音を忍ばせて私の隣へとすり寄り、周囲に聞こえないほどの小声で耳元に囁いてきた
「例の、同棲中の激甘彼氏に捕まってたんでしょ?」
「…………」
「あはは、図星じゃん!」
「もう、からかわないで……」
あまりの気恥ずかしさに、私は思わずキーボードの横のデスクへがっくりと突っ伏してしまった
私のわかりやすい反応に、梓が堪えきれずに吹き出す
「相変わらず仲が良いことで。ごちそうさま」
「……朝から散々、あの人のペースに振り回されただけだよ」
「はいはい、ご愁傷様〜」
一ミリも同情の破片すら入っていない軽い声。私はむすっと膨れっ面をしながら、気を取り直して今日の申し送り資料へと目を通した
降下するエレベーターの鏡の中で手早く髪を一つにまとめる
陽貴くんが機転を利かせて手配してくれていたタクシーの後部座席で、揺れに耐えながら最低限のメイクを滑り込みで終わらせる
スマートフォンのロックを解除して時間を確認するたびに、「嘘、本当に間に合わない……!」
と声にならない悲鳴が漏れた
何から何まで、完全に陽貴くんの計算通りのせいだ
いや。最後の最後で、彼の体温に流されかけて抵抗をやめてしまった私にも責任はあるのだけれど
でも絶対に、あの人は私の焦る反応を見て心底楽しんでいたに違いない
今朝のあの意地悪な微笑みを思い出した瞬間、抑えていた熱がぶわっと一気に顔へ込み上げてくる
「っ……もう、本当に……」
私はカッカと火照る額を手のひらで押さえながら、深いため息を吐き出した
バックミラー越しに運転手さんから不審そうな視線を投げかけられ、慌てて窓の外の流れる景色へと視線を逃がす
……ダメだ、今は考えたら負け
邪念を振り払うように自分に強く言い聞かせているうちに、見慣れた大病院の白い建物が視界に飛び込んできた
「ありがとうございました!」
料金を支払い、タクシーのドアが開いた瞬間から爆速で職員専用の通用口へと滑り込み、そのままロッカー室へと直行する
「はぁ、はぁっ……」
上がった息を整える間もなく、私服のボタンを外してハンガーへ掛け、何百回と繰り返してきた慣れた手つきで紺色のスクラブへと着替えていく
ロッカーの裏に貼られた鏡に自分の姿を映した
……よし、どこからどう見ても、いつもの凛とした看護師の顔だ
さっきまで自宅のベッドの中で、トップアイドルに翻弄されて蕩けた声を漏らしていた人間とは、逆立ちしても思えない
私は気合を入れるように、両手で軽く自分の頬を叩いた
「よし」
一瞬でプライベートの感情を心の奥底へ仕舞い込み、私は引き締まった表情でICUへと向かった
ナースステーションの自動ドアをくぐった、まさにその瞬間だった
回診の準備をしていた後輩の林くんと、ばっちり目が合う
「一ノ瀬さん、おはようございます」
「おはよ……」
「ずいぶんギリギリの出勤ですね。珍しいじゃないですか」
「……ちょっと、朝から色々あってね」
弁解する私の横から、クスクスと意地の悪い笑い声が聞こえてきた
振り返ると、電子カルテを見ながら立つ梓の姿があった
「ほんと、珍しいねぇ」
「ちょっと、梓……」
「紗凪がこんなタイムリミット寸前に滑り込んでくるなんて、一体何年ぶりの珍事?」
「……だから、色々と事情があったの」
「へぇ〜? 事情ねぇ?」
完全にすべてを察して、面白がっている顔だった
絶対に見透かされている
私はこれ以上の追及を逃れるように視線を逸らし、自分の電子カルテの画面を開いた
すると、梓が足音を忍ばせて私の隣へとすり寄り、周囲に聞こえないほどの小声で耳元に囁いてきた
「例の、同棲中の激甘彼氏に捕まってたんでしょ?」
「…………」
「あはは、図星じゃん!」
「もう、からかわないで……」
あまりの気恥ずかしさに、私は思わずキーボードの横のデスクへがっくりと突っ伏してしまった
私のわかりやすい反応に、梓が堪えきれずに吹き出す
「相変わらず仲が良いことで。ごちそうさま」
「……朝から散々、あの人のペースに振り回されただけだよ」
「はいはい、ご愁傷様〜」
一ミリも同情の破片すら入っていない軽い声。私はむすっと膨れっ面をしながら、気を取り直して今日の申し送り資料へと目を通した


