一人一首、君と。


私、東つむぐ 22歳。

部屋の掃除をしていたら、
百人一首の箱が出てきた。

箱を開けると、
一番上に

君がため 惜しからざりし
命さえ

があって、思わず呟いた。

長くもがなと、思ひけるかな。

あの時の私は、
ただ単に相手に勝ちたいだけの
百人一首しか知らなかった。

句の意味なんて、考えたこともなかった。

上の句が聞こえた瞬間、
誰より早く札を払うことしか
頭になかったから。

だけど今は、
この一首を見ただけで、
あの人の顔が浮かんでしまう。

高校の頃、
「ちはやふる」が流行って、
私たちもにわか百人一首ファンになった。

始めたきっかけなんて、
そんなものだった。

部活というほど本気でもなくて、
でも帰宅部とも言い切れない、
そんな百人一首同好会。

放課後の空き教室で、
畳でもない床の上に札を並べて、
みんなでわいわい取り合っていた。

久々に、同好会の集まりがあるらしい。

何年ぶりだろう。

グループメッセージに送られてきた
「久しぶりに集まろうよ」の一言。

それだけで、
あの頃の風景が一気に蘇った。

机を端に寄せた教室。
少し黄ばんだ札。
誰かの読み上げる、ぎこちない声。

そして――

向かい側に座っていた、
あの人。

あの人も、来るんだろうか。

スマホの画面をもう一度見る。
参加メンバーの名前の中に、
まだその名前はない。

なのに私は、
少しだけ期待している。

もし来たら――

今度は、
札じゃなくて、
ちゃんと顔を見て話せるだろうか。


集まり当日。

懐かしの顔がそこにはあった。
みんな変わってない。

「東、久しぶり!」
「全然変わってないじゃん」

他愛もない話で笑う。
こんな時間が懐かしい。

高校の頃みたいに、
机を寄せて、
みんなで輪になって座っている。

部屋を見渡す。

あの顔はなかった。

何の期待か分からずに、
ふぅ~と息を吐く。

その時、

チリン。

ドアの向こうから、
誰かが入ってきた。

振り向く。

あの顔。

藤元先輩が入ってきた。

少し伸びた背、
相変わらずの柔らかい笑顔。

「おー、みんな久しぶり」

変わってない。
でも、少し大人になっている。

胸の奥が、
きゅっと締めつけられる。

先輩の視線が、
ふと私に止まった。

「あれ、東?」

一瞬、驚いた顔をして、
それから少し笑う。

「久しぶりだな」

その声を聞いた瞬間、
高校の放課後が、
一気に戻ってきた気がした。

私は、
なぜか少し照れながら答える。

「お久しぶりです、先輩」

すると先輩が、
少しからかうように言った。

「東、まだ札取るの早いの?」

思わず笑ってしまう。

「もう負けませんよ、先輩」

そう言った瞬間、
誰かが言った。

「じゃあさ、久しぶりにやろうよ。
百人一首」

場が一気に盛り上がる。

札が机の上に並べられる。

私は、
そっと一枚の札を見つめた。

君がため 惜しからざりし
命さえ

あの頃は、
意味なんて知らなかった。

でも今なら、
少しだけ分かる気がする。

もし、
この恋が始まるなら。

きっと――

あの頃とは、
違う百人一首になる。

藤元先輩との久々の勝負。

先輩の容赦ない手さばき。

「はぁ~。藤元先輩、さすがです」

私が肩をすくめると、
先輩は少し笑った。

「東の癖は、覚えてる」

一瞬、手が止まる。

「え?」

「右に少し体重かけるだろ。
 それで次の瞬間、左に踏み込む」

図星だった。

「変わらないな」

先輩が静かに言う。

「嬉しいよ」

胸の奥が、
少しだけ熱くなる。

次の札が読み上げられる。

呼吸を整える。

読み手の声が、
部屋に静かに響く。

響きわたる、懐かしい音。

この感じ。

忘れていない。

忘れるはずない。

忘れたく、なかった。

私は、
そっと藤元先輩を見る。

先輩は、
札じゃなくて――

私を見ていた。

目が合う。

「つむぐ」

先輩が、小さく言う。

その瞬間、

読み上げられた。

「君がため――」

体が先に動いた。

バシッ。

札を払った音が、
部屋に響く。

私の手の下には、
あの札があった。

君がため 惜しからざりし
命さえ

先輩が、
少し驚いた顔で笑う。

「取ったな」

私は札を握りしめながら、
言った。

「先輩には、
 負けっぱなしじゃ終われないですから」

すると先輩が、
少しだけ真剣な顔になって言った。

「いや」

「これは――」

「俺の負けかもしれないな」

その札、
昔から
東、取るのが早かったよな。

「そうですか?」

「うん」

先輩は、札を指先で軽く揃えながら言った。

「その句の意味、知ってる?」

「えっ?」

答えを待たずに、
次の札が読まれる。

先輩の手が、
迷いなく札を払う。

「先輩、ずるい。作戦ですか」

私が少しむくれると、
先輩は笑った。

「俺は知ってる」

少しだけ声を落として、続ける。

「あの頃から」

「何をですか?」

そう聞いた瞬間、
また次の札が読まれた。

二人同時に手が伸びる。

パシッ。

ほんの一瞬、
先輩の指が私の手に触れた。

先輩の手が止まる。

そして、
ゆっくり言った。

「東が、その札好きだったこと」

「……」

「あと――」

先輩は少しだけ目を細めた。

「その句の意味、
 今は分かるんじゃないかってこと」

胸が、
どくんと鳴った。

君がため 惜しからざりし
命さえ
長くもがなと、思ひけるかな

あなたのためなら、
命さえ惜しくないと思っていたのに、

あなたに会えた今は、
もっと長く生きたいと思う。

あの頃は、
意味なんて考えたこともなかった。

でも今は――

私は、
札の上にそっと手を置いたまま、
小さく言った。

「先輩は……」

「どうして、
 それを知ってるんですか?」

先輩は少しだけ困った顔をして、
それから静かに笑った。

「簡単だよ」

「俺も――」

そこで読み手の声が響く。

「ちはやぶる――」

場がまた動き出す。

みんなの手が札に伸びる。

だけど、

さっき言いかけた言葉だけが、
胸の中に残ったままだった。

先輩は、
何を言おうとしたんだろう。

ありがとうございました。
さすが先輩。全然鈍ってないですね。

「私なんて……」

でも、あの札は、
取られちゃったな。

次の対戦を、
二人で眺めながら話す。

「東は今、何してるの?」

「こう見えて、社会人してます」

私は、少し得意げに言った。

「時には、
伝票をさっと、払ったりしてます」

先輩が一瞬きょとんとして、
それから笑った。

「そういう所、変わらないな。東は」

「そういう先輩は、何してるんですか?」

「俺は、先生してる」

「先生?」

思わず声が上がる。

「すごいじゃないですか」

「何先生ですか?」

先輩は少し考えるふりをして言った。

「なんだと思う?」

「やっぱり……古文とか?」

百人一首の札をちらっと見る。

でも先輩は首を振った。

「いや、書道」

「かなも、教えてる」

「へぇ……」

少し意外だった。
でも、なんだか先輩らしい気もする。

先輩は机の上の札を一枚手に取った。

そして、
指でそっとなぞる。

「そのお手本にさ」

静かな声で言う。

「東の好きだった、あの句を書いてる」

胸が、
一瞬止まった気がした。

「え……」

先輩は少し照れくさそうに笑う。

「覚えてるよ」

「東、この札だけは
 本気で取りに来てただろ」

君がため 惜しからざりし
命さえ

私は札を見つめる。

あの頃は、
ただの勝負だった。

でも今は、
少し違う。

「その句、
 生徒に教えるんですか?」

私が聞くと、
先輩は少しだけ首を傾けた。

「教えるっていうより」

「好きなんだよな」

そして、
少しだけ真剣な目で言った。

「ずっと」

その「ずっと」が、
歌のことなのか、

それとも――

別のことなのか、

私はまだ、
聞けないでいた。


久々の集まりは、お開きとなった。

「楽しかったですね」

「久々に東と勝負できたしな」

そんな話をしながら、
先輩と駅までの道を歩いていた。

夜の空気は少し冷たくて、
でもどこか心地いい。

高校の頃、
放課後に一緒に帰ったことなんて、
あっただろうか。

たぶん、なかった。

「また俺と勝負する?」

先輩が、ふと聞いた。

「えっ?」

一瞬、足が止まる。

「もちろんです」

私はすぐに答えた。

「負けのままでは終えられません」

そう言うと、
先輩は少し笑った。

「じゃ、約束だな」

駅の明かりが見えてきた。

その時、
先輩がふと立ち止まる。

「東」

呼ばれて、振り向く。

「さっきの続き」

「え?」

「俺が、あの句を好きな理由」

先輩は、
ゆっくりと言った。

「昔はさ」

「その人のためなら、
 何でもできるって思うほど
 好きになる歌だと思ってた」

少し間が空く。

それから、
私の方を見て言った。

「でも今は、違う気がする」

「会えたら、
 もっと長く一緒にいたいって思う」

先輩は少し照れたように笑った。

「まあ、書道の授業で
 そんな話はしないけどな」

私は思わず笑った。

でも、胸の奥が
静かに温かい。

駅につく。

先輩が改札の方を見ながら言った。

「次の勝負」

「ちゃんと覚えとけよ」

「その時は、
 またあの札、取りに来い」

私は少しだけ笑って答えた。

「もちろんです」

そして、心の中で思った。

次にその札を取る時、

私はきっと、
この歌の意味を

今よりもっと、
知っている気がする。




部屋でベッドに横たわり、
今日のことを思い出していた。

東、
きれいになってたな。

でも、
真っ直ぐなところは、変わってない。

それが、
なんだか心地よかった。

互いの札を見て、

耳を澄まし、
一音に集中する。

あの、張りつめた空気。

読み手の声が出される
ほんのわずかな間。

この「間」が、
昔の俺は好きだった。

でも、今は違う。

札に書かれている、
三十一文字。

上の句、下の句。

そこに秘められている、
想い。

「俺も大人になったな」

思わず、小さく笑う。

東と久しぶりに会えた。

向かいに座って、
真剣な顔で札を見ていた東。

昔と同じ、
少し右に体重をかける癖。

変わってなかった。

それを見たとき、
なんだか嬉しくなった。

東は、
俺と会って――

嬉しかったのか。

そう思ったとき、
ふと、今日の帰り道を思い出す。

「負けのままでは終えられません」

そう言って、
少し得意げに笑っていた顔。

ああ。

きっと、
嬉しかったんだろうな。

俺も、
嬉しかった。

天井を見上げながら、
小さくつぶやく。

「次の勝負、か」

その時、
机の上に置いたままの
書道の半紙が目に入った。

そこには、
今日書いたばかりの文字。

君がため 惜しからざりし
命さえ

長くもがなと 思ひけるかな

墨の黒が、
光って見えた。

俺はその文字を見ながら、
ふと考える。

次に東と会うとき、

この歌の意味を――

俺は、
ちゃんと伝えられるだろうか。




次の勝負か――

そう呟きながら、
私はベッドの上で天井を見ていた。

あの時、
藤元先輩は、
何を言おうとしていたんだろう。

「俺も――」

そこまで言って、
札が読まれてしまった。

その先を、
私はまだ聞いていない。

目を閉じると、
今日の光景が浮かぶ。

久しぶりに見た、
先輩の札を見る姿。

視線の動き、
指先の速さ、
身体の構え。

無駄のない所作。

綺麗だった。

書道の先生だなんて、
驚いたけど――

先輩に合ってる。

ふと、思う。

先輩の字を、
見てみたい。

かな文字を。

あの句の、かな文字を。

柔らかな線。

文字と、
余白とのバランス。

きっと――

素敵なんだろうな。

その時、

スマホが小さく震えた。

メッセージが届いた。

画面を見る。

藤元先輩からだった。

一瞬、
胸がどきっとする。

開く。

そこには、
短いメッセージ。

「東」

「さっき言いかけたこと」

私は思わず、
体を起こした。

少しだけ緊張する。

続きの文字を、そっと読む。

「今度の勝負のとき、ちゃんと話す」

そして

「それまでに、これ見といて」

その下に、
一枚の写真が送られてきていた。

開く。

そこにあったのは――

墨で書かれた、
かな文字。

あの一首だ。

柔らかな線と余白。

思っていた通り、
いや、
思っていたよりずっと綺麗だった。

私は、
その文字を見つめながら

小さくつぶやく。

「ずるいな……先輩」

そして、
少しだけ笑った。

次の勝負まで、

この歌はきっと、
ずっと私の中にある。




藤元先輩が、
ボランティアで書道教室をやるらしい。

それで、私は
助手を頼まれた。

「助手、できたらお願いできるかな」

メッセージを見た瞬間、
私は思わず笑った。

断れないって、
分かって送ってるな。
藤元先輩。

当日。

小さな公民館の和室。
机の上には半紙と硯、筆。

今日は、
八人の方に教えるらしい。

先輩はいつもの落ち着いた声で、
みんなに説明している。

「一枚目のお手本はこれで、
 楷書で書きます」

黒板に貼られたお手本。
きりっと整った文字。

「二枚目は、
 かなにしようと思います」

そう言って、
先輩が私に紙を渡した。

ふっと墨の香りがする。

そのお手本を見た瞬間、
私は少し驚いた。

柔らかな、かな文字。

「あ……」

思わず声が出た。

「これは、この間送ってくれた
 お手本ですね」

私が聞くと、
先輩は少し笑った。

「そう」

筆を持ちながら、
こちらをちらっと見る。

「東が、
 やっと意味が分かったやつ」

そう言って、
くすっと笑った。

「もう……先輩」

少しむっとして言うと、
先輩は肩をすくめる。

「だって本当だろ」

それから、
少し真面目な顔になって続けた。

「でもさ」

「意味が分かると、
 字も変わるんだよ」

先輩は筆を持ち、
半紙の前に立つ。

静かに息を整える。

そして、
最初の一文字を書いた。

流れるような線。

強さと、
やわらかさ。

その文字を見ながら、
私は思った。

この句の想いを、
先輩は

もう、
ずっと前から知っていたんだ。

ふと先輩が、
小さな声で言った。

「東」

「今日の勝負」

筆を置きながら、
少し笑う。

「札じゃないからな」



私も、
八人の生徒さんの中に入って
書いてみることにした。

半紙の前に座り、
筆を持つ。

思ったより、
手が緊張していた。

すると――

後ろから、
先輩の手がそっと添えられた。

「もう少し、ここは――」

先輩の声が、
すぐ近くで聞こえる。

「墨をつけずに、
 線をつなげて」

先輩の手が軽く
私の手を導く。

「そう」

「筆を立てて……」

静かな声。

背中越しに、
先輩の体温を少し感じる。

緊張してる、私。

先輩は、
ゆっくりと筆を運ばせながら言った。

「文字ってさ」

「想いを込めると、
 ちゃんと変わるんだよ」

その言葉と一緒に、

私の手から、
先輩の手が離れた。

急に、寂しくなる。

でも私は、
顔を上げずに答える。

「はい」

筆先を見つめながら、
さっきの言葉を思い出す。

想いを込める。

私は、
ゆっくり筆を動かした。

さっきより、
少しだけ柔らかい線になった気がする。

その時、
後ろから先輩の声がした。

「東」

振り向く。

先輩は、
私の書いたかな文字を見ながら言った。

「前より、いい字になった」

少しだけ、
嬉しそうに笑う。

「やっぱり、
 意味が分かると違うな」

私は、
半紙を見つめながら思う。

この句の意味を、

私はまだ――

全部は分かっていないのかもしれない。

でもきっと、

先輩と一緒にいる時間の中で、

少しずつ、
分かっていく気がした。


教室が無事に終わり、
二人で片付けをしていた。

私は流しで硯を洗う。
墨の黒い水が、静かに流れていく。

「素敵な教室でしたよ」

そう言うと、
先輩は筆を拭きながら答えた。

「そうか。ありがと」

少し照れたように笑う。

「そう言ってもらえると、嬉しいよ」

それから、
ふっと私の方を見た。

「東が来てくれたから、
 張り切りすぎた」

私は思わず笑った。

「そうなんですか?」

「うん」

少し間があって、
先輩が静かに言う。

「俺の気持ち」

「やっと、分かってくれた?」

私は硯を洗う手を止めた。

「やっとって……」

振り向いて言う。

「何度も言われてはいません」

すると先輩は、
少しだけ肩をすくめて笑った。

「そうだな」

「言ってないな」

そう言いながら、
先輩は半紙を一枚取り出した。

筆を持つ。

墨を含ませ、
静かに書く。

さらりと、
迷いのない線。

そしてその半紙を、
私の前に置いた。

そこに書かれていたのは――

君がため
惜しからざりし
命さえ

長くもがなと
思ひけるかな

私はその文字を見つめる。

先輩は、
少しだけ照れた顔で言った。

「だから」

「今、言う」

静かな声。

「つむぐに会えたら」

「もっと長く、
 一緒にいたいって思った」

墨の匂いが、
まだ少し残っている。

私は半紙を見つめたまま、
小さく息を吐いた。

そして、
ゆっくり顔を上げる。

「先輩」

「次の勝負――」

少しだけ笑う。

「長くなりそうですね」




あの札は、
百人一首の一つにすぎないけれど。

私にとっては、
一人一首。

そのくらい大事な札だし、
句だった。

時間は過ぎていたのに、
この句と同じように――

時を経て、
想いが募り、変わり、

そして、
温められてきた。

にわか百人一首ファンだったけれど、
あの時、好きになってよかった。

もしあの放課後がなかったら、
もしあの札を追いかけていなかったら、

きっと私は、
今ここにいない。

今みたいに、
この句を大事に思うことも、
なかった気がする。

先輩と。

この札を。
そして、この句を。

大事にしていきたいと思う。

君がため
惜しからざりし
命さえ

長くもがなと、
思ひけるかな。

あの頃は、
ただ札を取ることだけを考えていた。

でも今は、
この句の意味を、
少しずつ知っていく時間がある。

それだけで、

私はもう十分、
幸せだと思った。