浮気相手(ヒロイン)の攻略ノートが杜撰すぎて、元敏腕秘書は全力で添削することにした



 王立学園卒業の日。学園を卒業すると同時に生徒は成人を迎える。卒業式と成人式を兼ねたこの日は、建国祭や王家の祝い事に並ぶ一大行事だ。王宮の最も広いホールに国中の貴族が集い、盛大なパーティーが催される。

 婚約者のいる女性は、よほどの事情がない限り、ここから数年のうちに結婚することになる。パーティーが幕を閉じるまでのわずかな時間が、子どもと大人の狭間で多少のわがままが許される、人生最後の猶予だった。


 パーティーも中盤。皆が思い思いに過ごす中、最後の計画どおり、男爵令嬢サリア・バーネットを伴ったルードヴィクがクラリスの前に現れた。

 騎士科の意匠を凝らした濃紺の正礼服を着こなすルードヴィクと、王都の流行の最先端をいく、バーネット商会の技術の粋を尽くした薄紅色のドレスに身を包んだサリア。二人の姿は、おとぎ話に出てくる騎士と姫のように完璧だった。


 自然と周囲の視線が集まり、クラリスとルードヴィクを取り囲むように人だかりができた。ルードヴィクの後ろに控えるサリアは、俯いたまま表情を隠している。

 ルードヴィクはクラリスを冷ややかな目で見下ろすと、威圧的な低い声で告げた。

「君のようなつまらない人間と結婚しても幸せになれない。俺のような優秀な騎士が、跡継ぎにもなれない地味な伯爵家に入るのは、才能の無駄遣いというものだ。――この婚約は破棄させてもらう」

 最低限の手順は踏んでいるらしく、昨夜のうちに正式な書状も我が家に届いていた。両家の当主も了承しており、ルードヴィクのこれは単なる確認の儀式にすぎない。


「……承知しております」

 表情を変えず、拒絶を示すように半歩下がって一礼した。ただでさえ婚約破棄など外聞が悪いのだ。これ以上、不用意に見世物になりたくない。
 クラリスはぎゅっと唇を引き締め、ギャラリーの波に紛れるように、そっとその場を離れようとした。



 感情の見えないクラリスの動きに納得がいかなかったのだろう。彼は腕を組んで、顎を上げ、はっと鼻を鳴らす。

「地味なのに努力しなかった自分を恨むんだな! 比べてサリア嬢は男爵家で身分こそ劣れど、飛ぶ鳥を落とす勢いのバーネット商会の跡取りだ。社交界の華として輝くサリア嬢のような女性こそ、俺にはふさわしい!」

 そう高らかに宣言し、再び注目を集めると、ルードヴィクはその場でくるりと身を翻し、恭しく床に膝をついた。サリアの細く白い手をそっと取るその姿は、物語から抜け出してきた誇り高き騎士そのものだ。

 周囲が固唾をのんで見守る中、サファイアのような美しい碧眼が愛おしげにサリアを捉える。彼は慈しむように目を細め、甘い声で囁いた。


「サリア嬢、ずっと待たせてしまってごめん。俺と結婚してほ……」

「いや、しませんけど」

 サリアの氷のように冷たい声が会場にしんと響いた。日頃の元気いっぱいで明るい彼女を知っている誰もが、その豹変ぶりに息を呑む。


「サ、サリア……?」

 現実を受け入れられず、間抜けな顔で硬直する元婚約者を、サリアは汚いものを払うように手を振りほどいた。

 呆然と跪いたままの男を無視して大股で通りすぎると、クラリスの前に立つ。そして精巧に飾られた髪が乱れるのも構わず、がばりと深く頭を下げた。

「クラリス様、今まで、本当に申し訳ございませんでした……!!」


 震える声で謝罪し、そのまま泣き出してしまったサリアに、クラリスは初めておろおろと狼狽した。「え、なんで? 」「どうしたの……?」と問いかけても、サリアは肩を震わせるばかりで頭を上げようとしない。

 泣きじゃくる彼女を前に、周囲の好奇の視線にいよいよ耐えきれなくなったクラリスは、サリアの手を引いて逃げるように控室へと引っ込んだ。





 大規模なパーティーでは数多く控室が用意され、正当な理由があれば個室としても使用できる。扉の前で控える騎士と侍女に声をかけ、しばらく誰も入れないよう頼み込む。

 令嬢が二人で、片方はボロボロと涙を零している様子に、騎士たちも事情があると察したのか、黙って中へ通してくれた。


 クラリスは部屋の中央にあるソファにサリアを促すと、備え付けのティーポットで手際よくお茶を淹れた。テーブルの上に白く湯気のあがるカップを二つ並べ、サリアの隣に腰を下ろす。

「……クラリス様、いつもアドバイスをありがとうございました」

「私だと気づいていらしたのね……」

「あんな綺麗な字、少し考えたらすぐにわかりました」

 文官を目指す者は、書き写しの試験を避けては通れない。密かにそこを目標に習練を重ねてきたクラリスの文字は、端正でまるで教本のように美しかった。


 サリアはお行儀悪く両手で包むようにカップを持ち、ちびちびと紅茶を啜りながら、ぽつぽつと語りだした。

「信じてもらえないかもしれませんが……実は私はこの世界じゃないところに生きてきた記憶があって、今いるこの世界はそこで遊んでいた乙女ゲームとそっくりなんです」

「ゲームといってもわかりませんよね」と笑うサリアに、クラリスは困ったように微笑み返した。自分自身の前世の記憶は、仕事一筋に生きたこと以外、あまり思い出せない。


「私の家の商会が大きくなったのも、日本の知識を使って、これまでにない商品をつくってきたからです。でもそうしたら、商会が儲かるほどに、お父さまも、お母さまも、どんどん怖くなっていってしまって……」

 ふと目を落とすと、サリアが持つティーカップが小さく震え、波紋を描いていた。虚ろな瞳でどこか遠くを見つめたまま、辛い記憶を無理やり飲み下すかのように、ぐにゃりと顔を歪める。

「私がアイデアが出てこなくなって、売れる商品を出せなくなったら、『今度は有力な貴族と繋がりをつくれ』と無理やりこの学園に放り込まれました。上手くできなかったら、お金持ちのお得意さんの愛人にするって言われて。ここがゲームの世界なら、もしかしたら攻略対象の方を全員クリアしたら、抜け出せるんじゃないかって思ったんです」

 がむしゃらに予定を詰め込み、なりふり構わず対象へ接触を図ったものの、空回りし続けていたとき、例の赤文字を目にしたのだという。

「けれど、勝手にノートに書き込まれた正体不明の言葉でしょう?」

 あまりに無防備ではないか?と言外に伝えるが、彼女の返事は「ゲームのお助けキャラが現れたんだって、信じたかったんです」と切実なものだった。



「……それよりも、クラリス様があのような書き込みをした方が驚きです」

 クラリスは目立つことを好まない、貴族女性の鑑のような令嬢だ。ノートを見てサリアを避けるならまだしも、あのような行動に出るなど、普段の彼女からは考えられない。サリアの疑問も最もだろう。

「……だって、もったいないと、思ってしまったんですもの」

 透き通るような青い瞳でまっすぐクラリスを見つめるサリアに、ぽろりと、隠していた本音が零れ落ちる。


「クラリス様?」

「私はずっと外交官になりたくて、勉強したり、情報収集は怠らないようにしていました。だからこそ、わかります。あなたの商会は常に流行の最先端で、どこの国のどのような方に差し出しても喜んでもらえるような品揃えで」

 思わず体が前のめりになる。王城の質の良いソファが、クラリスの気迫に押されるようにぎしりと軋んだ。

「バーネット商会のファンは、この学園内にも大勢いらっしゃいます。最高の武器をすでに手にしているというのに、あなたという人は社交の『しゃ』の字もない、他の方々に迷惑をかけるやり方で皆さまに近づこうとして!」

「ご、ごめんなさい……」

「あなたの生み出した商品は、たくさんの人に新しい喜びや楽しさを与える、人の心を掴む素晴らしいものです。そしてその向こう見ずな行動力。誰からかわからないアドバイスを鵜吞みにして動くのは正直どうかと思いましたけど、今お聞きした話が本当でしたら、ここまでの商品開発力も含めて、類まれなパワフルさだと思います」


 そう、クラリスはずっと憤っていたのだ。

 前世の経営者たちにすら匹敵するようなサリアの発想力や行動力。それは誰もが簡単に真似できることではない。その才能を活かして世界へ羽ばたかないで、センスのない知性の欠片もない立ち振る舞いばかり――なんて、もったいないのだろうと。




「ク、クラリス様ぁ……」

 サリアが迷子の子犬のように情けない声を漏らす。

「例え世界を動かすような発想力を持っていても、それを本当に実行するパワーがある人はそういないのです。誰にでもできることではありません。あなたはいつだって素直で、あまりに一生懸命だから、私もどんどんできることをしたくなってしまって……」

「クラリス様、本当にごめんなさぁい!!」

 クラリスの言葉を遮るように、サリアが覆いかぶさる勢いで抱き着いてきた。わんわんと子どものように泣きわめくサリア。その小さな肩をさすりながら、クラリスは静かに瞼を閉じた。



 心の奥底でずっと燻っていた想いに耳を傾ける。胸の奥にある鉛のような固まりがせり上がり、喉元をキュッと締め付ける。怖い。でもサリアから漂う柔らかな花の香りに勇気づけられて、絞り出すように声を出す。

「いいえ、サリア様が謝る必要はありません。自分の婚約者と向き合わずに、あなたに押し付けるようなことをした私自身に責任がありますわ」

「……クラリス様?」

 血がにじむほど、ぎゅっと唇を噛みしめる。これまで独りで抱え込んできた罪悪感が、苦い鉄の味と共にあふれ出す。

「サリア様、私の問題に巻き込んでしまって申し訳ございません」

「そ、そんな……」

「あなたのおかげで、私はルードヴィク様と結婚したくないし、やっぱり外交官として働きたいと強く確信できたの。そして、ルードヴィク様と別れるためにあなたを利用したわ。サリア様の評判や気持ちも考えずに……」

「クラリス様の所為じゃありません! 最終的には私が自分の意志でルードヴィク様に迫ったんですから!」

「でも、でも……私はとても卑怯だったわ……」

 耐えきれずに、クラリスの茶色の瞳からポロッとひとつ涙が零れた。ここで泣きだしてしまうなんて。自分はなんてずるい人間なのだろうか。

 素早い動きで、サリアがポケットからレースのハンカチを取り出し、クラリスの目元に優しく添える。


(――この子、ちゃんとハンカチを持っていたのね)

 自分の涙を拭うことさえ忘れていたくせに、誰かのためなら迷わず動けるサリア。

 ノートのやり取りを通じて気づいていた。サリアは貴族のマナーには少し疎いけど、心根がまっすぐで温かい素晴らしい令嬢だ。彼女がそれを望むなら、ルードヴィク様と結ばれて幸せになってほしい。そう願った気持ちも、紛れもないクラリスの本心だ。



 どちらともなく、すっかり化粧の崩れてしまった顔を見合わせ、クスクス笑い合う。婚約者であるルードヴィクとさえ、これほど親密な空気になったことはなかった。

 本音を吐き出した後の空気は驚くほど清々しく、二人の間には代わりの利かない確かな気安さだけが残っていた。

「……クラリス様は外交官になりたいのですか?」

「……そうよ。家のために嫁ぐのが当たり前で、働く道なんて選べないと思い込んでいたわ。けれど、最終的には弟が家を継ぐのだから、私がルードヴィク様と結婚しなければならない絶対的な理由もなかったの。だけど貴族として、生まれる前から決められた運命に異議を唱える勇気もなかった」

 親に逆らえずにいた自分と重ねたのだろうか。また泣きそうな顔になったサリアが、クラリスの手をぎゅっと握りしめる。そのあたたかいぬくもりに、自然と体の力が抜ける。

「心の中ではずっと働きたかった。そのことばかり考えていて、ルードヴィク様と親しくなる努力もしなかった。中途半端だったわ」

 本当にごめんなさいと呟くと、サリアはゆるゆると首を振った。


「クラリス様は学校の先生みたいですものね」

「そこは秘書って言ってほしかったわ」

「秘書、確かに! 秘書の方がぴったりですね!!!」

 うんうんと力強く頷いた後、サリアは視線を彷徨わせて何かを考える素振りを見せた。クラリスは思い出したように、すっかり冷めてしまった紅茶を手に取り、口に含む。喋り疲れた今の喉には、むしろ冷たさが心地よく、最後に残っていた小さな胸のつかえまで一緒に流れ落ちていくようだった。

「ねぇ、クラリス様。私はクラリス様のおかげですごい人脈が広がったんです。王太子殿下ともお近づきになれました」

「そうね。正直にいうと、本当に王太子殿下と王太子妃殿下の懐にまで入れるとは思ってませんでしたけど」

「それですね、王太子妃であるソフィア様が社交界に強い専属の文官を探してて。ぜひクラリス様を推薦したいと!」

「は?」

「えへへ、実はあのお二人にはクラリス様の正体ばれちゃってます」

 あまりの驚きに、ガチャンと音を立ててソーサーにカップを戻してしまった。気まずそうに視線を逸らし、頬を指で引っ掻くサリアに、どういうことなの!とクラリスが詰め寄る。



 サリアの話を要約すると、こうだ。

 これまで有力貴族の令息たちに無鉄砲な突撃を繰り返していたサリアが急変したことを、王太子殿下は陰で訝しんでいたらしい。続いてあまりに鮮やかな手際で王太子妃候補にまで距離を詰めてくるものだから、「何が狙いだ」と問い詰められてしまったのだという。

 最高権力者には逆らえず、あろうことか、サリアはあの赤入れされたノートをそのまま差し出した。

 事情を理解した王太子殿下は呆れ果てながらも納得し、以後は寛容になった。そしてソフィア様は、その緻密な計画を大層気に入ってしまったのだという。ルードヴィク様との婚約破棄も織り込み済みで、「もし彼と別れて自由になるなら、私の元へ来ないかしら」とサリアに相談していたとか。


「私はソフィア様とご挨拶しかしたことないわ!」

「ソフィア様は、クラリス様の実力は十分ご存知ですから大丈夫ですよ!」

 王族専属の文官は、執務の補佐からスケジュール管理、はたまた夜会やお茶会の差配、諸外国との交渉まで。幅広い知識と緻密な計画性、高度な管理能力が問われる仕事だ。王族からの厚い信頼が不可欠なため、単に能力が高いというだけで得られる地位ではない。

 その仕事はまさに、クラリスが夢見た外交官という職業に通じるものであり、婚約破棄される令嬢としての名誉すら回復できる、破格の待遇だった。


「たぶんですね、ソフィア様は今日の計画もご存知なので、そろそろ結果を知りたくて、ここにいらっしゃる気がします。私とソフィア様、なんと思い切りの良さやすぐ行動しちゃうところが結構似ているんです!」

「え、嘘でしょう!? ご挨拶できるような顔じゃないわ!!」

「このままでも気にしませんよ」「大丈夫じゃないわよ!」

 そんな令嬢らしからぬ押し問答を繰り広げていたそのとき、本当にソフィア様が訪ねてきて、呆然とするクラリスへ、正式に文官への登用を打診したのである。



――ヒロインのあまりに杜撰な計画書を添削していたら、まさかの前世からの憧れが叶っちゃった話。