翌朝、クラリスは普段よりも早めの時間に登校した。同級生たちに挨拶をしながら教室に入り、まっすぐに自席へ向かう。窓際の1番後ろの席は、風通しがよく、クラス全体が一望できるので気に入っている。
あの子の席は私の席からみて右斜め前方で、昨日椅子の上に置いて帰ったノートがそのままの位置にあることを確認できた。彼女は常に遅刻ギリギリの時間にくる。ずっと疑問に思っていたが、あの鬼のようなスケジュールで過ごしているのなら納得だ。
今朝も自作の計画を忠実に実行しているのだとすれば、騎士科の校舎に寄っているのだろう。
始業の鐘が鳴る数分前に、滑り込むように彼女が教室に入ってきた。その後ろからすぐに担任が現れ、談笑していた生徒たちも慌ただしく椅子に座る。
皆が出席を確認する教師の声に耳を傾ける中、彼女は身を縮めるようにしてノートを開き、途端に息を呑んで体を強張らせた。落ち着かない様子で周囲に視線を彷徨わせると、ノートを机の奥へそっと押しやる。
(あの子はどういう行動に出るかしら)
クラリスは可愛らしい髪飾りがついたストロベリーブロンドの後ろ姿を、誰にも悟られぬよう、静かな期待と共に横目で追い続けた。
――どうやらあのノートは、授業の合間に隠れて書きこまれているらしい。
その日彼女を観察してわかったことは、盗み見られた形跡に警戒を強めるような素振りもなく、常と変わらず朗らかで明るく振る舞っていたこと。
そして、座学の最中に時折あのノートを取り出して、ペンの先で顎を突き、唸りながら熱心に書き込んでいること。よく怒られないものだと感心したが、彼女の字は非常に読み取りにくい。一瞥した程度では、それが授業のメモではなく不遜な計画書だと露ほども思われないのだろう。
わかったことはそれだけ。他は特筆すべきこともなく、いつも通りの一日が過ぎていった。
クラリスは放課後、友人と約束がない限りは図書室で自習してから帰ることにしている。
机の中身を整理する振りをしながら、あの子の動向を伺っていると、彼女は周囲をきょろきょろと見渡した後、ノートを机の中に戻した。そして、「あ、時間!」とわざとらしく呟いて、慌ただしく教室を出て行く。
赤入れした犯人を誘い出す罠かと疑ったが、続いて窓の外から聞き覚えのある元気のいい声が響き、ハッとして窓に近寄る。三階にある私たちの教室からは、下校する生徒で賑わう校門がよく見渡せた。
目を引く桃色の髪の主が手を振り、駆け寄った先。そこには、私の婚約者ルードヴィク・クロウの姿があった。
「お待たせしました! ルードヴィク様!」
「いいや、待ってないよ。今日はどこに行きたい?」
ルードヴィクは慣れた手付きであの子の肩を抱き、自家の紋章の入った馬車へエスコートする。この国では、婚約者以外と密室で二人きりになるのは移動の馬車も含めて不作法とされる。さらにいえば例え婚約者であっても、成人するまではあまり歓迎されない。
騎士科の訓練が多忙だという理由で、ルードヴィクとは学園に入学してからほとんど顔を合わせていない。以前は観劇に誘われることもあったが、暗闇で足を撫でまわされたりするのが不快で、やんわりと人目のある場所を提案し続けたら、次第にやりとりが途絶えた。
窓の手すりを持つ手が小刻みに震える。風に煽られたカーテンが視界を遮り、再び視線を落としたときには、二人の姿はもうなかった。
「クラリス様、大丈夫ですか……?」
同じく一部始終をみていたクラスメイトの令嬢が、案じるように声をかけてきた。顔の前でゆるゆると手を振り、穏やかに応じる。
「わかってはいたのですが、いざ目の当たりにすると驚いてしまったわ……」
「ルードヴィク様は、その……大変な人気ですものね……」
ルードヴィクは、騎士らしい長身に王家の色とよく似た輝くような金髪碧眼の美男子で、令嬢の羨望の的だ。闘技大会で彼が登場すると黄色い歓声が沸き起こるのも、見慣れた光景だ。
婚約者のクラリスは、先輩からやっかみを受けたこともある。すれ違い様に、あなたのような地味な子に彼はもったいないわと囁かれたり、ルードヴィクは婿入りという立場を嫌がっているのよと忠告されたり。
ルードヴィクの不貞に薄々気づいてはいたが、これも貴族社会ではよくあること。どうすることもできないと、蓋をしてやり過ごしてきた自分に今さらながら気づかされる。
「少し頭を冷やしてから帰るわ」
そう告げると、クラスメイトは同情の混じった面持ちで頷き、静かに教室を去っていた。
最後のクラスメイトも帰宅し、クラリスは一人、教室にぽつんと取り残された。席に座ったまま、斜陽が落とす影をぼんやりと眺める。開けっ放しにされた窓から吹き込む冷たい風が、クラリスの茶色の髪を揺らし、頬を撫でる。
やがて何かに導かれるように主のいなくなった席へ歩み寄り、クラリスはあの青いノートを取り出した。
ページを捲ると、昨日の自分が書いた赤い文字の下に、あの呪文のような悪筆で言葉が書き加えられていた。
〈どなたか知りませんが、アドバイスありがとうございます! 言われたとおり、お昼ご飯を食べているカイン先輩に声をかけて、おやつを分けてあげたら、いい感じに話せました!〉
攻略対象と書かれていた現宰相家の嫡男であるカイン・フロスト様。物静かで面倒見がよく、図書室で勉学に励んでいるという攻略情報の記述は、大枠において相違ない。
元の計画では、昼休みの図書室で偶然を装って隣に座り、課題のわからないところを聞くと書かれていた。
だが、彼は読書中に邪魔されるのを酷く嫌う。面倒見が良いのは自分から声をかけた場合のみで、計算ずくで擦り寄ってくる相手は嫌いなのだ。冷たくあしらわれる令嬢たちの姿を、クラリスは自習中に何度も目にしてきた。
カイン様の性格を鑑みれば、図書室前のベンチで昼食をとっているときに堂々と声をかけた方が好ましい。甘いものがお好きなようだから、お礼に菓子を渡せばなお良し――これが昨日クラリスが書き加えた提案。
その得体のしれない赤ペンのメッセージを、彼女は素直に信じて実行したようだ。
先ほど見た光景で理解してはいたが、彼女は本当にこの予定表どおりに動いて、攻略なるものをする気らしい。
休み時間のたびに教室を飛び出していくあの子の後ろ姿。慣れた手つきで彼女の肩を抱いていたルードヴィク。何かに憑かれたようにノートに書きこんだ自分。昨日からの出来事が次々と脳裏に浮かんでは消える。
書き加えられた言葉を繰り返し読んだ後、クラリスは意を決したように赤ペンを握った。
それから奇妙な交流が始まった。
彼女の情報は偏っている上、計画に落とし込む際には相手の性格や好みを全く考慮しない。貴族社会のルールにも疎いのだろう。一歩間違えれば不敬を問われ、つま弾きにされてもおかしくないことも平然と盛り込まれていた。
クラリスは秘書だったときの情報収集力や観察眼をフル稼働し、ノートを徹底的に添削した。ただし、それは恋仲になるためではない。あくまで真っ当な社交の手段として、相手と親しくなるための計画への修正だった。
婚約者がいる男性に対しては、失礼に当たらない線引きや引き際も教えた。「あなたのやっていることは不敬だからやめなさい」と伝えて大人しく従う相手なら、そもそもこんな真似はしないだろう。だからこそ頭ごなしの否定は避け、徐々に誘導するよう手順を踏んだ。
まず過密すぎる計画の無謀さを指摘し、攻略対象なる男性を絞り込ませることにした。
〈このイベントは投資対効果が悪すぎます〉
〈二兎追うものは……ですよ。まずは目の前の男性に集中しましょう〉
どうしていけると思えるのか意味不明だが雲の上の存在である王太子殿下は、攻略対象から外せないらしい。
〈王太子殿下とどうしてもお近づきになりたいのでしたら、まずは公爵令嬢のソフィア様と親しくなりましょう〉
〈身分の差を考えれば、自分から声をかけるなど言語道断。今は厳禁です。まずは、あちらから話しかけたくなる『隙』を作りましょう〉
〈ソフィア様は、バーネット商会の商品を愛用されています。新商品を身に着けたり、近くで新作のお菓子を食べたりして興味を引くのです。好奇心が強く人当たりの良い方ですから、きっとあちらから声をかけてくださるはずです〉
〈わかりました!! やってみます!!〉
打てば響くとはまさにこのことで、彼女は即座にかつ素直に行動に移していく。そしてとにかく読み取りづらい点を除けば、報告される出来事は克明で、おかげでこちらもさらに精度の高い提案ができた。
この奇妙な交流が始まって数ヵ月の間に、彼女はいつの間にか社交界の中心へと上り詰めていった。
「ルードヴィク様……」
図書室に向かう前にわざと少し遠回りをして、騎士科の校舎に近い廊下を歩いていたら、ルードヴィクと鉢合わせしてしまった。
たまにはあの子が計画を実行している姿を覗いてみようかしら、なんて。軽い気持ちで野次馬をしたのが運の尽き。鍛えられた身体に女子生徒をべったりと貼り付かせたルードヴィクが、正面から歩いてきたのだ。
姿を視界に捉え、認識した瞬間、思わず眉をひそめてしまった。不味いと思って表情を取り繕うとしたときにはすでに手遅れで、彼の顔には明らかな嫌悪が滲んでおり、大きな舌打ちを投げつけられた。
「ルーク、どうしたの?」
クラリスのことを知らないのだろう。令嬢は途端に機嫌の悪くなった男に、さらに擦り寄るように甘える。それに少し気分をよくしたのか、ルードヴィクはパッと笑顔をつくり、「何でもないよ」と甘い声で令嬢の頭を撫でた。
令嬢が纏うバラの香りが、逃げ場のない廊下で嫌に鼻につく。クラリスを冷淡な目で睨みつけながら、彼がすれ違いざまに吐き捨てるようにぼやく。
「なあ、淑女科ってさ。男の立て方とか授業で教わらないのかよ?」
「淑女教育のこと?」
ローラが小首を傾げて聞き返す。
「せめて可愛く甘えてくれる女の子なら、まだ我慢できたんだけどな~」
「私みたいな?」
「そうそう。ローラは家格はちょっと物足りないけどな~」
「なによう!」
令嬢がポカポカと叩く真似をするのを、ルードヴィクが笑いながら受けとめる。「楽しいところにでも行こうぜ」と今度は彼が手慣れた様子で女の機嫌を取り始めた。
クラリスは動くこともできず、彼らの笑い声が遠のいていくのを、ただ背中でじっと受けとめた。
その後も、月日は滞りなく流れていく。
もともと恐ろしいほど行動力がある子なのだ。
いつの間にやら、彼女は一学年上の王太子殿下やその婚約者である公爵令嬢とも懇意になったらしく、選ばれた者しか立ち入れないサロンから、あの元気で明るい声が漏れ聞こえてくるようになった。
彼女はクラリスの計画に従い、次第に無謀な攻略の手を引いていった。交友関係こそ男女問わず広がったものの、特定の男性と深い仲に陥ることはなく、あくまで良き友人としての地位を築いている。
最後まで攻略リストに残った男は――クラリスの婚約者であるルードヴィクだった。

