季節は、少しずつ冬へ向かっていた。
吐く息が白くなるほどではないけれど、朝の空気には冷たさが混じり始めている。
その日、陽はいつもの電車に乗り、扉近くのスペースに立った。
鞄から最近読み始めた小説を取り出し、しおりを挟んでいたページを開く。
揺れる車内。レールの規則正しい音。
文字を追いながら、ぼんやりと駅をいくつか通り過ぎた。
ふと顔を上げる。
目の前に立っている人のリュックが、全開になっていた。
ファスナーが大きく開き、中身が見えそうになっている。いや、見えている。
――声をかけるべきか。
陽は迷った。
知らない人に話しかけるのは苦手だった。
面倒な反応をされるのも嫌だ。
でも、このまま知らないふりをするのも気が引ける。
少しだけ躊躇してから、そっと肩を叩いた。
相手が振り返る。
その瞬間、陽は息が止まりそうになった。
あの人だった。
ずっと気になっていた、あの彼。
思わず目を見開く。
なぜか彼も同じように驚いた顔をしていた。
「……リュック、全開に開いてますよ」
やっとの思いで、小声で言う。
彼は自分の肩越しに背中を確認し、さらに目を丸くした。
「わー、ほんとだ。ありがとうございます」
あわてて笑いながら、リュックを前へ抱え直す。
陽の胸の中では、別の騒ぎが起きていた。
――あの人だ。
――初めて目が合った。
――声、聞いた。
頭の中で何度もその言葉が弾ける。
彼はリュックを閉めるため、陽の目の前で身体の向きを少し変えた。
そこに、大きな背中が現れる。
コート越しの肩幅。
近すぎる距離。
電車が揺れるたび、少し触れてしまいそうになる。
陽はもう本を閉じていた。
意識は、目の前の背中に全部持っていかれていた。
窓ガラスに映るその背中を見つめる。
耳の奥で、自分の鼓動だけがうるさい。
――心臓、壊れそう。
次の駅で、陽のいる側の扉が開いた。
降りる駅ではなかった。
それなのに、たまらず外へ出た。
人の流れに紛れ、何事もなかったような顔でホームを歩く。
さもここが最寄り駅です、という顔で。
誰も見ていないのに。
けれど背中にまだ、あの近さだけが残っていた。
あの日から、一週間が経った。
けれど陽の時間だけ、まだあの電車の中に取り残されたままだった。
目が合った瞬間。
熱が伝わりそうなほど近くにあった背中。
耳に残って離れない、初めて聞いた声。
思い返せるのは、そのことばかりだった。
キャンパスで彼の姿を探す余裕もない。
見つけてしまったら、また心臓がどうにかなりそうで怖かった。
誰かに声をかけられても、上の空だった。
先輩の誘いも、友達の話も、曖昧な笑顔でやり過ごす。
返事をしているようで、何も聞いていない。
また、誰かが声をかけてきた。
――やめてよ。
今はまだ、余韻に浸っていたいのに。
適当に流そうと視線も上げずに歩き出しかけた、その時だった。
肩をつかまれる。
驚いて顔を上げると、すぐ目の前に彼の顔があった。
この前の、あの距離。
――え?
――夢?
息をするのも忘れて、陽は固まった。
彼は少し息を弾ませながら笑った。
「あー、やっと会えた。この前はありがとう」
陽は無表情のまま、ただ彼の顔を見つめていた。
近い。
まつげが見える。
声が、また聞こえる。
雅人の笑顔が少し曇る。
「……あ、ごめん。覚えてないか。 この前、電車で……リュック……」
その言葉で、陽はようやく現実に引き戻された。
「覚えてます、覚えてます。その節は……」
口をついて出たのは、自分でも意味の分からない返事だった。
雅人が吹き出しそうになるのをこらえている。
「見かけたから、ちゃんとお礼言いたくて」
まっすぐな声だった。
陽はますます落ち着かなくなる。
「いえいえ、荷物……無事で良かったです」
また訳の分からないことを言ってしまった。
何を言っているんだろう、私は。
そう思うのに、頭は真っ白で何も浮かばない。
雅人は少しだけ目を細めて、楽しそうに笑った。
冬のはじまりの冷たい空気の中、その笑顔だけがやけにあたたかく見えた。
「同じ大学だったんだね。 また会えてよかった」
そう言って、彼は軽く手を上げ、そのまま去っていった。
陽は、その場から一歩も動けなかった。
人が行き交うキャンパスの真ん中で、時間だけが自分を置いて流れていく。
星も見えない昼の空を見上げて、陽は小さくつぶやいた。
「ありがとう」
また会えた。
話せた。
右肩に残る、つかまれた感触がまだ熱い。
うまく息ができなかった。
吐く息が白くなるほどではないけれど、朝の空気には冷たさが混じり始めている。
その日、陽はいつもの電車に乗り、扉近くのスペースに立った。
鞄から最近読み始めた小説を取り出し、しおりを挟んでいたページを開く。
揺れる車内。レールの規則正しい音。
文字を追いながら、ぼんやりと駅をいくつか通り過ぎた。
ふと顔を上げる。
目の前に立っている人のリュックが、全開になっていた。
ファスナーが大きく開き、中身が見えそうになっている。いや、見えている。
――声をかけるべきか。
陽は迷った。
知らない人に話しかけるのは苦手だった。
面倒な反応をされるのも嫌だ。
でも、このまま知らないふりをするのも気が引ける。
少しだけ躊躇してから、そっと肩を叩いた。
相手が振り返る。
その瞬間、陽は息が止まりそうになった。
あの人だった。
ずっと気になっていた、あの彼。
思わず目を見開く。
なぜか彼も同じように驚いた顔をしていた。
「……リュック、全開に開いてますよ」
やっとの思いで、小声で言う。
彼は自分の肩越しに背中を確認し、さらに目を丸くした。
「わー、ほんとだ。ありがとうございます」
あわてて笑いながら、リュックを前へ抱え直す。
陽の胸の中では、別の騒ぎが起きていた。
――あの人だ。
――初めて目が合った。
――声、聞いた。
頭の中で何度もその言葉が弾ける。
彼はリュックを閉めるため、陽の目の前で身体の向きを少し変えた。
そこに、大きな背中が現れる。
コート越しの肩幅。
近すぎる距離。
電車が揺れるたび、少し触れてしまいそうになる。
陽はもう本を閉じていた。
意識は、目の前の背中に全部持っていかれていた。
窓ガラスに映るその背中を見つめる。
耳の奥で、自分の鼓動だけがうるさい。
――心臓、壊れそう。
次の駅で、陽のいる側の扉が開いた。
降りる駅ではなかった。
それなのに、たまらず外へ出た。
人の流れに紛れ、何事もなかったような顔でホームを歩く。
さもここが最寄り駅です、という顔で。
誰も見ていないのに。
けれど背中にまだ、あの近さだけが残っていた。
あの日から、一週間が経った。
けれど陽の時間だけ、まだあの電車の中に取り残されたままだった。
目が合った瞬間。
熱が伝わりそうなほど近くにあった背中。
耳に残って離れない、初めて聞いた声。
思い返せるのは、そのことばかりだった。
キャンパスで彼の姿を探す余裕もない。
見つけてしまったら、また心臓がどうにかなりそうで怖かった。
誰かに声をかけられても、上の空だった。
先輩の誘いも、友達の話も、曖昧な笑顔でやり過ごす。
返事をしているようで、何も聞いていない。
また、誰かが声をかけてきた。
――やめてよ。
今はまだ、余韻に浸っていたいのに。
適当に流そうと視線も上げずに歩き出しかけた、その時だった。
肩をつかまれる。
驚いて顔を上げると、すぐ目の前に彼の顔があった。
この前の、あの距離。
――え?
――夢?
息をするのも忘れて、陽は固まった。
彼は少し息を弾ませながら笑った。
「あー、やっと会えた。この前はありがとう」
陽は無表情のまま、ただ彼の顔を見つめていた。
近い。
まつげが見える。
声が、また聞こえる。
雅人の笑顔が少し曇る。
「……あ、ごめん。覚えてないか。 この前、電車で……リュック……」
その言葉で、陽はようやく現実に引き戻された。
「覚えてます、覚えてます。その節は……」
口をついて出たのは、自分でも意味の分からない返事だった。
雅人が吹き出しそうになるのをこらえている。
「見かけたから、ちゃんとお礼言いたくて」
まっすぐな声だった。
陽はますます落ち着かなくなる。
「いえいえ、荷物……無事で良かったです」
また訳の分からないことを言ってしまった。
何を言っているんだろう、私は。
そう思うのに、頭は真っ白で何も浮かばない。
雅人は少しだけ目を細めて、楽しそうに笑った。
冬のはじまりの冷たい空気の中、その笑顔だけがやけにあたたかく見えた。
「同じ大学だったんだね。 また会えてよかった」
そう言って、彼は軽く手を上げ、そのまま去っていった。
陽は、その場から一歩も動けなかった。
人が行き交うキャンパスの真ん中で、時間だけが自分を置いて流れていく。
星も見えない昼の空を見上げて、陽は小さくつぶやいた。
「ありがとう」
また会えた。
話せた。
右肩に残る、つかまれた感触がまだ熱い。
うまく息ができなかった。

