Fahrenheit -華氏- Ⅲ



それから


「~♪」


あたしはムーンリバーを口ずさみながら、バスローブのままリビングの窓枠に腰を下ろし、


けれどビールはやめた。


今はあたしが大好きな赤ワインのフルボディ。


怒ってるときはスコッチ、ストレート。楽しいとき気軽なときは赤ワイン。


そう…


あたしは怒ってなどない。


ただ―――


―――とても悲しい。


激しく、ときに穏やかで……その悲しみは不安定に大きさを変える。


あたしはソファの方をちらりと見た。ソファの背に乗せた啓のワイシャツ。


ふらり


立ち上がると、あたしはソファを素通りして、壁に沿って置いてあるチェストの引き出しを開けた。


引き出しの中から白い紙袋を取り出し、その紙袋からオレンジのパッケージで“リスペリドン内用液”と書いてある経口薬を取り出した。


普段は余程のことがない限りあまり服用しない。眠くなるから。


苦いし、不味いし、これはあくまで頓服だ。


心が不安定な時にだけ―――と処方された薬。


1mlと書かれた経口薬の口を開き、それを勢いで口に流し込む。一気に言いようのないまずさが口の中に広がり、それをかき消すため、ワインを口にした。


重く渋みのある独特のコクがその苦みを消してくれたけれど、


それから30分経っても、効果は現れず、あたしは再びもう一包…と手を伸ばした。


引き出しを開けて、同じ引き出しに小さなアンティーク調の小箱の存在に気付いた。


こげ茶色をした長方形の箱。


こんな所に仕舞ったんだ…


あたしはその小箱を開けた。


あたしにとってお金より大事なもの、命を繋ぐものがこの引き出しに入っている。


小箱を開けると、薄いグレーのベルベッド素材の底に、モノクロの


あたしが妊娠に気づいたときのまだユーリがひとの形になるかならないか…小さな胎児のエコー写真が入っている。


それをそっと取ると


「懐かしい…」あたしはちょっと微笑んだ。


今、この写真を見つけられたのは、ユーリがあたしの命を繋げようとしたのか。


エコー写真を手に取り、しかし別の事も浮かんだ。



真咲さんが啓の子を宿し、でも啓はその子の誕生を望まなかった。


啓が学生時代―――まだ社会人になる前の―――精神的にも経済的にも成長していない彼がその選択をしたのは


間違っていないと思う。


真咲さんの心は母性に満ち溢れていた。好きな人の子供を産みたいと思うのは、当然のことだ。


啓がそれを奪った。


だから真咲さんは啓に恨みを抱いていた。


真咲さんの浮気がキッカケで二人が別れたのは本当のことだろう。


でも深い意味でのキッカケはそのことがあったに違いない。



あたしは―――


真咲さんの気持ちが分かる。マックスに愛する娘を奪われたから。


でも、啓の苦渋の選択も―――仕方ないと思う。


啓は自ら「ヒトゴロシ」と言ったが、厳密的に言うとそれは法を犯したわけではない。


ただ、彼の心情的にそれは大きく圧し掛かり、押しつぶされそうになっていたに違いない。


彼はきっと悩んだ筈だ。


あたしにその過去を打ち明けようか。


打ち明けたらあたしが離れて行く―――とでも?


離れて


いかない。


啓があたしの過去を受け止めてくれたよう、あたしが今度は啓の過去を受け止める。


でも、その機会ももう




ない。




「啓、別れの理由として


イーブンではないわ。


あたしが犯した罪の方がよっぽど、



重い」



あたしは啓とお揃いのリングをその箱にそっと仕舞い入れた。