入職して二週間。病棟の空気にも慣れ、ようやく通常業務を一人で回せるようになっていた。
「手が空いたスタッフ、集まって。カンファ始めるわよ」
あの黒縁メガネの細身美人――市川主任の声で、日勤スタッフが詰所に集まる。
「今日は422号室、山崎裕子さんのカンファです。子宮体ガンで全摘予定。担当の藤川さん、計画を」
指名され、準備していたカルテを前に出す。
「共有をお願いします。まず術前ケアとして――」
説明に入ろうとした瞬間、冷ややかな声が割り込んだ。
「この患者さん、水商売のママなんでしょ? 面会に来る子たちも派手だし、香水もきついわ。風紀的にどうなの。面会禁止にすべきじゃない?」
凍りつく空気。
「……職業を理由に制限をかけるのは違います。問題は行動のはずです。私から山崎さんに、病院の基準を再確認してもらいます」
私がきっぱりと言うと、その場は渋々収まった。しかし、市川主任は資料に目を落としたまま淡々と続ける。
「この人、四十歳の独身か。基礎疾患もなし、術後も問題なさそうね。こういう“手のかからない患者”は助かるわね」
その言葉が、胸に棘のように刺さった。
「……“手がかからない”とは、どういう意味でしょうか」
気づけば言葉が漏れていた。
「子宮を摘出することは、その人の人生を大きく変える出来事です。精神的なケアが最優先されるべきだと思います」
主任の視線が、メガネ越しに鋭く上がる。
「藤川さん。こういう年齢の方は、簡単に弱音を吐けないの。そっとしておくのが正解な場合もあるわ」
「だからと言って、向き合わないのは違います。毎日の一言でも、救われる瞬間はあるはずです」
「……藤川さん、ご立派ね。でもここは聖三愛病院じゃないの。理想だけじゃ現場は回らないわ」
「理想論を言っているつもりはありません。患者に提供する看護は、本来どこにいても同じであるべきです」
身を乗り出す私を遮ったのは、北田師長の声だった。
「そこまで! ……みんな、何のために働いているの? 主人公は患者さんよ。忙しさに流されても、戻る場所は一つ。対話よ」
その言葉が、静かな波紋のように広がった。
♢
その日の午後は、まさに地獄だった。
カンファレンスが終わった瞬間から、市川主任の指示が雨あられと降り注ぐ。
「藤川さん。哺乳瓶の消毒にマンマ指導、カイザーの授乳指導もお願い。分娩室の物品補充も。……できるわよね?」
明らかに一人分の業務量ではない。
「……できます」
短く答え、私は走り出した。
哺乳瓶の消毒で指先がふやけ、授乳指導で声を張り、整備で腰が悲鳴を上げる。
「藤川さん、次はこれ」
息を吸う暇さえ削り取られる。足を止めれば一気に崩れそうで、機械のように動き続けた。
ようやく全てを終え、勤務室の壁に寄りかかった時、脚は自分のものじゃないほど重かった。
「おい、藤川。市川主任に集中攻撃受けてるって聞いたけど、大丈夫か?」
パソコンから顔を上げた鳴海くんが、心配そうに私を見る。その声だけで、張り詰めていた糸がふっと緩みそうになった。
「へ、平気だよ……慣れるまでは、これくらい」
「……辛かったら俺から主任に言うよ」
「大丈夫。ありがとう」
(ここで頼ったら、私は負ける)
「鳴海先生! 看護師は忙しいんです、業務外の雑談は控えてください」
冷徹な声が空気を切り裂く。市川主任が私の腕を躊躇なく掴んだ。
「藤川さん、ベッド移動お願いね」
「市川さん、それは一人じゃ無理だ――」
鳴海くんが割って入ろうとしたが、私は彼の白衣の袖を軽く引いて首を振った。
「鳴海先生。403号室のオペ後患者さん、診察お願いします」
彼は何かを言いかけて、唇を噛んだ。
「……無理すんなよ」
それだけ残して離れていく背中を、私は心の中で見送った。
♢
そこからは、ただの“作業”だった。
ベッドを押し、シーツを整え、点滴スタンドを揃える。一つ終われば次。
最後の一台を整え終えたのは、病棟の一番奥――422号室。あの山崎さんの部屋だった。
「藤川さん、あとは綺麗にしておいて」
市川主任は汗一つかいていない。そのまま部屋を出ようとした時だった。
「ちょっと、市川主任さん、いい?」
山崎さんの声が響いた。
「……なんですか?」
「少し話したいの。カーテン、閉めてくれる?」
主任が微かに間を置いてから、静かにカーテンを引いた。
私は隣のベッドメイキングを続けながら、耳を澄ませる。
「私と市川主任って、中学の同級生だよね。覚えてる?」
空気が、一変した。
「……え?」
「ほら、習字の展覧会でいつも特賞だった、あの山崎だよ」
「……山崎さん?」
主任の声が、初めて揺れた。
「市川さん、子供いる?」
「……いないけど」
「私もいない。結婚もしてない。でもさ、パートナーはいるんだ」
「個人的なことには答えられません」
「別にいいよ」
山崎さんは震える声で続けた。
「私さ、仕事に夢中で結婚も出産も先送りにしてきたんだ。でも今回、子宮を取るって決まったら急に惜しくなっちゃって。もう、子供は持てないんだなって……。四十女のこんな嘆き、若い看護師さんには言えないし、きついよね……」
シーツを整えていた主任の手が、止まる。
「……我慢しないで、辛いことは担当の看護師に相談してください。ここのスタッフは優秀ですから」
「知ってるよ。いい子だよね。でも、忙しそうじゃん。看護師さんたちって、みんな必死で……声、かけられないよ」
その一言に、市川主任の表情が凍りついた。
私も、手が止まる。
“忙しい”を言い訳に、患者に壁を作らせていたのは、誰だったのか。
「……申し訳なかったわ。これからは私からも声をかけるわ」
主任の声から、いつもの棘が消えていた。
「救われるな、市川さんにそう言ってもらえると。……ありがとう」
カーテンが開き、出てきた市川主任と目が合った。
彼女は、どこか吹っ切れたような、けれど決まりの悪そうな顔をしていた。
「……確かに、患者との対話は基本ね。大切なことだわ」
張り詰めていた空気が、ようやくほどけた気がした。
「はいっ。私もそう思います」
「い、以上よ! 戻るわよ」
「はい!」
並んで歩き出す廊下。窓から差し込む夕光が、二人の白衣を淡く照らしていた。
市川主任は、不器用なだけなのだ。そう思えたことが、少しだけ誇らしかった。
「……あと、午後はよく働いてくれたわね。助かったわ」
すれ違いざまの、消え入りそうな小さな声。
私は返事をするタイミングを逃してしまったけれど、胸の奥は、不思議なほど軽くなっていた。
(今日も、終わった)
足は重いけれど、明日もまたこの場所で戦える。そう思いながら、私は一歩を踏み出した。


