新しい職場の初出勤は、無事に終えることができた。
病棟を出ようとしたところで、エレベーターから降りてきた鳴海くんとすれ違う。
「藤川、お疲れ。初出勤、どうだった?」
爽やかにかけられた声に、心が解ける。
「みんな優しくて、すぐに慣れそうだよ。鳴海くんも気にかけてくれて、ありがとう」
「いつでも頼れよ……そのつもりで見ているから」
「……うん、ありがとう。まだ仕事なの?」
「これから定期薬の処方。……じゃあ、また明日な」
軽く手を挙げて去る彼の背中に、私もつられて手を振った。
一人になったエレベーターの中で、思わず頬が緩む。
(また、明日も会えるんだ)
まるで部活の頃に戻ったみたいで、胸が弾んだ。
――なのに。
(“そのつもりで見ている”って……どういう意味?)
その一言だけが、甘い余韻の端っこで、小さく引っかかった。
♢
帰宅すると、当然のように我聞がソファを占領していた。
私は鞄を置くなり、その前に立つ。
「萌奈、テレビ見えないだろ。どけよ」
「今日、若葉総合病院に行ったら鳴海くんがいたんだけど」
「あいつの職場なんだから当たり前だろ」
「……なんで教えてくれなかったの?」
「教える必要あるか? あいつ、いい奴だろ」
「じゃあ、私の転職のことはなんで伝えたのよ」
「酒の席の話だよ。覚えてねえ」
(……都合よすぎ!)
確信犯なのは見え見えだけれど、これ以上追求しても無駄だろう。
「……私の転職理由、あいつに言ってないよね?」
声が、自分でも驚くほど硬くなる。
「そんなの知らん」
「そ、そう……」
胸の奥の重みが、ほんの少しだけ軽くなった。
(知られていないなら、やり直せる。……真っ白な状態で)
我聞は面倒くさそうに、大きなあくびをしていた。
♢
我聞が帰り、家に静けさが戻った。
キッチンで水を飲んでいると、母が背後から声をかけてきた。
「萌奈、新しい病院はどうだった?」
「うん。いい人ばかりで安心したよ」
「そう……。それでね、萌奈」
母が少しだけ、言いづらそうに視線を彷徨わせる。
「あなたの部屋の、あのクローゼット。……奥にある、黒い大きな袋……あれ、何?」
――ドクン、と心臓が跳ねた。
飲みかけた水が気管に入り、激しくむせる。
あの袋。
絶対に誰にも見られないよう、一番奥に押し込んだはずのもの。
(なんで……見つけるのよ……)
「仕事が落ち着いたら処分するから。……触らないで」
「すぐ捨てられないものなの? 嫌な匂いとかはしないけれど……」
母の視線に、戸惑いと不安が混じる。
「ただのゴミ。でも、そのまま捨てたくないだけ」
「……ねえ、萌奈」
母の声が、静かに沈んだ。
「前の病院で、本当は何があったの?」
――心臓が、嫌な音を立てる。
思い出したくない、あの光景。
大声で名前を呼ばれ、
嘲笑とともに、写真をばら撒かれ、
逃げ場を塞がれた、あの地獄のような日。
「……なんで、そんなこと聞くの?」
「急に辞めたでしょう。理由も言わないし、ずっと顔色が悪いから」
(言えるわけないじゃない。……あんなこと)
私はコップを握りしめる。
「大丈夫だよ。心配することじゃない。……終わったことだから」
無理やり笑顔を作る。頬が引き攣るのが自分でもわかった。
「本当に?」
「うん。新しい病棟も順調だし」
母を安心させるための嘘。自分を納得させるための、まやかし。
(終わってなんて……いない)
私は視線を逸らし、コップをシンクに置いた。
クローゼットの奥。きつく縛られた黒い袋の中で、死んだはずの“過去”が、まだ醜く息をしていた。


