私を振った同級生ドクターの距離が近すぎます!〜もしかして、私のこと好きですか〜

「藤川、大丈夫か」

鳴海くんの低い声に、弾かれたように顔を上げた。患者さんも驚いてこちらを見ている。

やってしまった。

初日にして、これ以上ないほど派手なミスだ。私は慌てて膝に力を込め、床に転がった汚物缶を素早く回収した。

「す、すみませんっ! 驚かせてしまいましたね」

心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねている。
なぜ、鳴海くんがここにいるのか。
混乱で頭が真っ白になりかけるが、ここは職場だ。

(今は私情を捨てないと。私は看護師だ)

「すみません、鳴海……先生。驚いてしまって。介助に入ります」

咄嗟に「先生」と呼び替えられた自分を、心の隅で褒めた。
震える手で消毒セットを準備する。慣れ親しんだ動作が、辛うじて私を現実に繋ぎ止めてくれた。

患者さんは六十五歳の女性。内視鏡手術の術後だ。
鳴海先生がガーゼを剥がすと、創部には滲出液が滲み、皮膚がわずかに赤みを帯びていた。

「創の治りが少し遅いですね。持病はありませんでしたか?」

鳴海先生の顔が、一瞬で「医師」のそれに変わる。
私は包交車に載せたPCを叩き、最新の検査データーを弾き出した。

「血糖値が……境界域ですね」
「なるほど。血糖が高いと感染リスクも上がる。一度、内科の対診も検討しましょう」

彼は患者さんに安心させるような笑みを向け、内科受診を提案した。
その横で、私は軟膏を探すのに一瞬手間取ってしまう。すると鳴海先生は、無言のまま患者さんの腹部にタオルをかけ、不必要な肌の露出を避けた。

(……この気遣い、昔からだ。守ることを当たり前にできる人だ)

軟膏を綿棒に取り、彼に差し出す。
処置に集中する彼の奥二重は、伏せられることで綺麗な二重のラインを描いた。
真剣な眼差し、迷いのない手つき。

(変わってない。人と向き合うときの、この真剣さ)

だからこそ――勘違いしてしまう。

中学生の頃、部室で見ていたあの横顔が、今の彼の姿と重なり胸の奥が熱くなる。

「ガーゼ大を」
「はい」

清潔操作を守りながら滅菌包材を開く。その際、テープによる皮膚のかぶれに気がついた。

「鳴海先生。かぶれが出ているので、テープの種類を変えましょう」
「……ああ、そうですね。助かります」

看護師と医師として、視線を交わす。
(患者を中心に、同じ方向を見ている)
昨日までの「初恋の相手」ではなく、今は「救うためのパートナー」として、私たちは一つの処置を終えた。



「ふーっ。お疲れさまでした」

処置車を押し、並んで廊下を歩く。
ようやく訪れた二人きりの時間。私は堪えきれずに問いかけた。

「……今更だけど、どうして鳴海くんがここにいるの?」

「ははっ、本当に今更だね」

彼は高く伸びた背を少し丸め、私を覗き込むようにして笑った。

「我聞から聞いていたんだ。藤川が今日からここに来るって」
「我聞!? あいつ、鳴海くんと繋がってたの?」
「しょっちゅう俺の家に遊びに来るよ」

(あの口の軽いコミュモンめ……!)

大事なことは何一つ教えないくせに、私の動向だけは筒抜けだったなんて。

「でも、あのクリニックは?」
「あそこは叔父の病院だよ。あの日は土曜のヘルプ。……藤川は気が利くな。さっきのテープかぶれ、俺は見逃してた」

不意に褒められ、顔が熱くなる。

「あ、ありがとう。鳴海くんこそ、タオルの使い方がプロだなって思ったよ。昔から、そういうところあったよね」

私が言うと、彼は一瞬目を見開き、それから照れくさそうに視線を逸らした。

「……思い出すな」
「なにを?」
「ロボット研究部。図工室で、二人でハンダゴテ持ってた頃のこと」

♢♢

――ロボット研究部、通称「ロボ研」。

中学校の校舎の片隅。部員はたったの五名。
プログラミングに興味があって足を踏み入れた私は、そこで鳴海くんと出会った。

当時のロボ研は、ハイスペックなオタク集団だった。
設計図を広げ、ハンダゴテを握り、真っ黒な画面に呪文のようなコードを打ち込む。
レベルの違いに圧倒され、入部を諦めようとした私に、彼が声をかけてくれた。

『藤川さん、ライトで手元を照らしてくれると助かる』

溶接をする彼の隣で、私は必死にライトを支えた。
彼の狙う場所に影ができないよう、息を詰めて動きを追う。
真剣に作業に打ち込む彼の横顔、額に光る汗、綺麗な二重。

(この人の役に立ちたい)

それが、私がそこに居続けた理由だった。

部活の後は、いつも二人で裏門から帰った。
お互いの夢や、難しい試験の話。
並んで歩く時間が、当たり前のように続くと思っていた。

♢♢

「あれこそ、私の青春だったな」

廊下を歩きながら、私は独り言のように呟いた。
鳴海くんは懐かしそうに目を細め、私をじっと見つめる。

「藤川の笑顔、あの頃と全然変わってないな」

(そんなこと、この距離で言わないで)

一気に鼓動が速まり、視線を泳がせる。

(――だめ。これは“仕事仲間”としての距離じゃない)

彼は大人になり、見上げるほど背も高くなって、立派な医師になった。
けれど、話した時の空気感や、ふとした瞬間の優しさは、あの頃の鳴海くんのままだ。

「病棟に知った顔があるのは、俺も心強いよ。慣れるまでは何でも頼って」
少し間を置く。
「……最初から、そのつもりでいたしな」

(最初から? それって、どういう意味……?)

「……うん、ありがとう。よろしくお願いします、鳴海先生」

十数年ぶりに並んで歩く。
放課後の廊下の匂いがした気がして、私は小さく微笑んだ。

(偶然じゃない再会、なのかもしれない)

――そう思った瞬間、また勘違いしそうで、少しだけ怖い。