私を振った同級生ドクターの距離が近すぎます!〜もしかして、私のこと好きですか〜



そして翌日の夜勤務。
今夜は分娩待機もなく病棟が落ち着いていた。

(久々に穏やかな夜勤だな)

今夜のメンバーは、私と市川主任とベテラン看護師の三人。分娩室で消毒と物品の補充理を行っていた。入り口の戸を叩く音がした。振り向くとそこに鳴海くんが立っていた。

「鳴海先生…」

(昨日のことかな。本当に話があるんだ)

「話があるんだよね?」

私がそう切りだすと鳴海くんは何も言わずに部屋に入ってきて、私の前に立ちはだかった。なぜか言葉を発しない。その瞳は、見たこともないほど暗く、激しい感情を孕んでいる。

「様子が変だよ。……何かあった?」

「藤川、前の病院をなんで辞めたの?」

いきなりの直球に、心臓を撃ち抜かれたような衝撃が走る。
触れたくもない悪い思い出が、再び箱から飛びだして私の心を突いてくる。

「…どうしてそんなこと聞くの?」
「三愛病院は同期がいてさ、噂は知っていたよ」
「……え?」

「聖三愛病院の産婦人科医 東十条 誠の婚約者に外来で写真をばらまかれたって本当?」


 ああ――――…


心臓を撃ち抜かれたような衝撃で、思わず目を瞑ってしまう。誰にも知られたくなかった私の黒歴史。あのことを鳴海くんは知っているんだ。私は胸が苦しくなってどうしようもなくなる。

「それは、事実?」

私は静かにコクンと頷いた。鳴海くんは厳しい目をしていた。

「なるほど。それは事実。で、その真実は?」

 ―――!!

私は驚きで目を見開いた。
あの場面を目撃したほとんどの人は、私が悪人だと認識していた。なのに鳴海くんは、最初から“事情がある”と知っていたような言い方をしている。それが腑に落ちた瞬間、胸の奥が熱くなって涙が滲みそうになった。

「正直に話さないと、学会で東十条に会ったら殴るかもよ?」

その真っ直ぐな怒りに、胸の奥が熱くなる。
鳴海くんの真っすぐな眼差しには、すでに怒りの対象が定まっている。
その矛先は、東十条先生だ。

――知られていたんだ。

それでも、私の味方でいようとしてくれている。
その事実だけで、息が少し楽になる。

「……すごい。私は鳴海くんから信頼されているんだね」

「藤川が婚約者がいる男性を誘うなんて、俺は最初から思ってない」

断言だった。

「うん……そうだよ。私はそんなことしていない」

私は観念して、すべてを話すことにした。
少しだけ間をおいて鳴海くんを見る。

「東十条先生からは、よく誘われていた。でも私はずっと断っていたの。ある日、病棟の子たちと食事に行ったときに、なぜか先生がいて……気づいたら二人きりにされていたの。嫌で、そのまま帰った。でも、そのときの写真を婚約者に撮られたんだと思う」

撮られた写真は、まるで密会しているように見える一瞬を切り取ったものだった。
実際には何もない。それでも外来でばらまかれた。
患者の視線、妊婦さんたちの沈黙。
視線を避けながら、『担当の看護師を変えてもらえますか』と妊婦に言われた瞬間が忘れられない。

あの冷たい空気は、今でも思い出すと胸が詰まる。

「悪いのは東十条だろ。婚約者の勘違いなのに、なんで誤解を訂正しなかったの?」

「仕方がなかったの……」

私は力なくそう答えた。
一度、鳴海くんが言葉を飲み込んだ。

「藤川はいっつもそうだ! 自分が犠牲になっても、他が助かればそれでいいって!」

鳴海くんの声が跳ねた。怒っているのに、その怒りは私を責めていない。

「鳴海くん…」

「中学の頃もそう。部員全員で作り上げた出し物だったのに、部の配布プリントに藤川の名前だけが抜けていた。刷り直すのはもったいないって藤川は簡単に引き下がった。俺は悔しかったよ。毎日一緒に時間をかけて作ってきたのに簡単に諦めてっ!」

鳴海くんが眉と唇を力ませてそう言った。そこからも本気で怒っているのがわかった。こんなに感情を出す鳴海くんは初めてだ。

「そんなこともあったね……」

そのあと鳴海くんの提案で部員のみんなが私の名前を一枚づつ書いてくれた。あの頃から鳴海くんは私のヒーローだった。

「悪いことはやってないのにそんな辞め方、藤川らしくない」

「私は二人に屈したわけではないの。私が辞めようと思ったのは、そこで出産する妊婦さんのためよ」

「どういうこと?」

「もちろん誤解だと説明したわ。でも病院にクレームがたくさん入ったの。あの看護師がいる病院で産みたくないって。混雑した外来で叫ばれたからたくさんの人が誤解してしまったの。一人一人にあれは間違いですって訂正ができなかった。だから、出産する妊婦さんの気持ちを考えて……、仕方のないことだったの」

妊婦が安心して出産にのぞめるように善処を尽くした。それがたまたま”辞める”という選択肢だっただけ。

「今だって、あの二人に負けただなんて思ってないよ。相手にする価値もない人たちだから」

「…そんな」

「看護師は病院が変わっても同じ仕事ができる。今だってこうやって楽しく鳴海くんと働いているわ。だからもうなんとも思ってないの」

これが私の本心。だから、鳴海くんに笑ってそう伝えた。

「本当に?」

「うん。鳴海くん、心配してくれてありがとう。昔から私の世話役だったから、今でも世話をしたくなるのよね。でも、もう世話を焼かなくても大丈夫だよ」

昔から鳴海くんは私に率先して声をかけてくれて、やることなすこと隣で教えてくれていた。私は鳴海くんの人の良さに甘えていただけなんだ。もう今は、そこまでしてもらうのは申し訳がなかった。

それなのに、鳴海くんはとても辛そうな顔をしている。

「俺は……世話が好きなわけじゃない」

声が、少しだけ抑えきれていなかった。
次の瞬間、肩を押し込まれた。壁に触れる背中の感触。鳴海くんの手が私の顔の横に置かれる。

「ちょ、鳴海くん? ここ、病棟だよ?」

「わかってる」

その声は低いままなのに、どこか乱れていた。

「わかってるけど……もう、黙ってられない、藤川がさ」

一瞬、言葉が途切れる。喉の奥で何かを噛み潰すみたいに。

「全部終わったみたいな顔、するなよ」

鳴海くんが苦しそうに私をまっすぐに見つめる。

「勝手に片付けて、勝手に笑って……俺の前でくらい、それやめろよ」

息が詰まる。

「まだ、終わってないだろ?」

距離は近いのに、触れない。その“触れなさ”が逆に私の逃げ道を塞ぐ。

「鳴海くん…近い…よ」

胸の鼓動が邪魔をして、いつも通りに言葉が出ない。
その言葉は鳴海くんには届かない。

「近くないと……俺が、納得できない」

その瞬間、胸の奥がどうしようもなくざわついた。
あの日、冷たい視線に晒された私の心を、彼の手が無理やりこじ開けようとする。整理したはずの痛みが、彼の熱で溶かされていく。
喉の奥がきゅっと詰まる。
「……っ」
息が乱れたのを、誤魔化せない。そのとき――

「誰かいるの?」

市川主任の神経質な声で私は我に返った。

「鳴海先生? ここで何をやっているんですか?」

主任が声をかけてくる。すでに私たちは勘違いされない距離を取っていた。

「市川さん。お疲れさまです。今日はだいぶ落ち着いているので、ここで藤川さんと雑談をしていたんですよ」

さっきまでの情熱が嘘のように、鳴海くんは冷静だった。

「鳴海先生。こんな時間に死角になる場所で、スタッフと二人きりにならないでください。誤解の元ですからね」

「すみませんでした。僕はこれで戻ります」

遠ざかる背中を見つめながら、私は立ち尽くす。
整理したはずだった。終わったはずだった。
なのに、鳴海くん。
あなたのせいで、私の心はまた、行き先を失ってしまう――。