「藤川さん、エンゼルケアお願いします」
この日、私は日勤で患者のケア回りをしていた。秋晴れの午後、4A病棟は静まり返っていた。
卵巣がんのターミナルケアを受けていた413号室の柏木恵子さんが亡くなった。北田師長の指示で、私と大久保看護師がエンゼルケア(死後の処置)に入る。丁寧にお辞儀をして個室に入ると、ご家族が力なく振り返った。
「これから柏木さんのお身体をお清めいたします」
そう告げると、ご家族は一斉に立ち上がり、「よろしくお願いします」と廊下へ出ていった。
エンゼルケアは、身体を清拭で清め、ご家族の希望の衣服に着替えさせる。そして、生前に近いお顔になるよう薄化粧を施す。
大久保さんとベッドを挟み、手際よく準備を進める。
「では、柏木さん。始めますね」
手を合わせる。
(柏木さん、お疲れさまでした
これからお身体を綺麗にして、ご家族のもとへ帰りましょうね)
心の中でそう語りかけ、清拭を始めた。
そのときだった。
「す、すみません……気分が……」
大久保さんが突然しゃがみ込んだ。
「大丈夫? 無理しないで座ってて」
青白い顔のまま、近くの椅子に腰を下ろす。
「もしかして、大久保さんエンゼルは初めて?」
「はい……ご遺体に触れるの、人生で初めてで……」
申し訳なさそうにうつむいた。
「そうだったのね。無理しないで休んで」
そう伝え、私は一人で作業を続ける。人の死に立ち会うことは、この仕事では避けられない。大久保さんの反応は自然なものだった。
しばらくして、小さな声が落ちる。
「……こういうのって、慣れるものですか?」
「え?」
「産科って、命が生まれる明るい場所だと思って希望したんです。でも婦人科では“死”もあって……私、看護師失格ですよね……」
涙がこぼれていた。
「気持ちはわかる。私も新人の頃、同じだったから」
「本当ですか?」
「産婦人科は『生と死』が混在する特別な病棟だから、戸惑うのは当たり前」
「はい……」
「私たちは、安全に安楽に過ごせるよう患者さんを支える仕事。生まれるか、亡くなるかは違っても、役割は変わらないと思ってる」
大久保さんが息を詰める。
私は点滴痕を丁寧に拭きながら続けた。
「“慣れる”って言葉が正しいかはわからない。でもね――」
顔を上げて、まっすぐに見つめる。
「人は寿命を全うする生き物でしょう。一生懸命生きた人の最期には、自然と尊敬の気持ちが生まれるの」
これは私の信念だ。
「だから最後は、『お疲れさまでした』っていう気持ちが一番しっくりくるかな」
大久保さんは大きな目で、じっとこちらを見ていた。
――この子は大丈夫。
そう思えた。
清拭と更衣が終わり、最後の薄化粧の準備をする。
「あの……私にお化粧をさせてもらってもいいですか?」
顔色を取り戻した大久保さんが申し出た。
「柏木さんのプライマリーナースだったので……生前のお顔、覚えています」
「お願いね」
その目に宿る責任感を見て、私は任せた。
かつての自分と重なる。生と死の狭間で戸惑いながらも、少しずつ意味を見つけていく。
この病棟で働けることを、今は誇りに思っている。
♢
スタッフで柏木さんを見送り、次は新生児室へ。切り替えも大切な仕事だ。
廊下を曲がると、病棟に入ってきた鳴海くんと出会った。
「鳴海先生、お疲れさまです。これから病棟ですか?」
「ああ、微弱陣痛で進まないって連絡があって」
「そうなんですね」
そこへ、バイタルチェックを終えた森さんが現れた。鳴海くんを見つけ、にやりと笑う。
「鳴海先生。お返事、待っているんですけど?」
意味ありげな言葉。しかし鳴海くんは答えない。
「あ、そういえば医局にこんなものが落ちてたんだ。物騒だから持ってきた」
白衣のポケットから紙を取り出し、私たちに見せる。
「なんですか?」
近づいて覗き込む。
――――――――――
森環奈
産婦人科 三宮浩二 二回
理学療法士 山本高志 一回きり
薬剤師 松井春馬 不定期
副院長 水木洋平 昔は週一
……
――――――――――
男性スタッフの名前と、謎の回数。
「鳴海先生……これは?」
聞いた瞬間、森さんが素早く紙を奪い取った。
「いい、医局にこれが……?」
「うん。落ちてたよ」
「誰にも見られてない?」
森さんの顔色が一気に青ざめる。
「たぶん。でも俺、全部覚えちゃった」
鳴海くんが不敵に笑う。
「これって森さんが――」
「あの話はなかったことにしましょう!!」
鳴海くんの声が森さんの叫びで遮られた。
「私は忘れるわ! だから鳴海先生も忘れて!」
「そうだな。変な噂は困るし」
「そうよ。噂なんて真偽不明なんだから。じゃあ失礼」
森さんは紙を握り潰し、足早に去っていった。
残された私は、ただ呆然とする。
「藤川。明日、夜勤だよな?」
「うん……」
鳴海くんの表情がまた変わる。静かな、読めない顔。
「俺も当直。夜、話がある」
「なんの話?」
「その時に」
それだけ言って分娩室へ向かっていった。
その静けさが、少し怖い。
(私、何かしたかな……)
思い当たらないまま、首を傾げる。
その夜勤の“話”が、単なる相談だとは――なぜか思えなかった。
この日、私は日勤で患者のケア回りをしていた。秋晴れの午後、4A病棟は静まり返っていた。
卵巣がんのターミナルケアを受けていた413号室の柏木恵子さんが亡くなった。北田師長の指示で、私と大久保看護師がエンゼルケア(死後の処置)に入る。丁寧にお辞儀をして個室に入ると、ご家族が力なく振り返った。
「これから柏木さんのお身体をお清めいたします」
そう告げると、ご家族は一斉に立ち上がり、「よろしくお願いします」と廊下へ出ていった。
エンゼルケアは、身体を清拭で清め、ご家族の希望の衣服に着替えさせる。そして、生前に近いお顔になるよう薄化粧を施す。
大久保さんとベッドを挟み、手際よく準備を進める。
「では、柏木さん。始めますね」
手を合わせる。
(柏木さん、お疲れさまでした
これからお身体を綺麗にして、ご家族のもとへ帰りましょうね)
心の中でそう語りかけ、清拭を始めた。
そのときだった。
「す、すみません……気分が……」
大久保さんが突然しゃがみ込んだ。
「大丈夫? 無理しないで座ってて」
青白い顔のまま、近くの椅子に腰を下ろす。
「もしかして、大久保さんエンゼルは初めて?」
「はい……ご遺体に触れるの、人生で初めてで……」
申し訳なさそうにうつむいた。
「そうだったのね。無理しないで休んで」
そう伝え、私は一人で作業を続ける。人の死に立ち会うことは、この仕事では避けられない。大久保さんの反応は自然なものだった。
しばらくして、小さな声が落ちる。
「……こういうのって、慣れるものですか?」
「え?」
「産科って、命が生まれる明るい場所だと思って希望したんです。でも婦人科では“死”もあって……私、看護師失格ですよね……」
涙がこぼれていた。
「気持ちはわかる。私も新人の頃、同じだったから」
「本当ですか?」
「産婦人科は『生と死』が混在する特別な病棟だから、戸惑うのは当たり前」
「はい……」
「私たちは、安全に安楽に過ごせるよう患者さんを支える仕事。生まれるか、亡くなるかは違っても、役割は変わらないと思ってる」
大久保さんが息を詰める。
私は点滴痕を丁寧に拭きながら続けた。
「“慣れる”って言葉が正しいかはわからない。でもね――」
顔を上げて、まっすぐに見つめる。
「人は寿命を全うする生き物でしょう。一生懸命生きた人の最期には、自然と尊敬の気持ちが生まれるの」
これは私の信念だ。
「だから最後は、『お疲れさまでした』っていう気持ちが一番しっくりくるかな」
大久保さんは大きな目で、じっとこちらを見ていた。
――この子は大丈夫。
そう思えた。
清拭と更衣が終わり、最後の薄化粧の準備をする。
「あの……私にお化粧をさせてもらってもいいですか?」
顔色を取り戻した大久保さんが申し出た。
「柏木さんのプライマリーナースだったので……生前のお顔、覚えています」
「お願いね」
その目に宿る責任感を見て、私は任せた。
かつての自分と重なる。生と死の狭間で戸惑いながらも、少しずつ意味を見つけていく。
この病棟で働けることを、今は誇りに思っている。
♢
スタッフで柏木さんを見送り、次は新生児室へ。切り替えも大切な仕事だ。
廊下を曲がると、病棟に入ってきた鳴海くんと出会った。
「鳴海先生、お疲れさまです。これから病棟ですか?」
「ああ、微弱陣痛で進まないって連絡があって」
「そうなんですね」
そこへ、バイタルチェックを終えた森さんが現れた。鳴海くんを見つけ、にやりと笑う。
「鳴海先生。お返事、待っているんですけど?」
意味ありげな言葉。しかし鳴海くんは答えない。
「あ、そういえば医局にこんなものが落ちてたんだ。物騒だから持ってきた」
白衣のポケットから紙を取り出し、私たちに見せる。
「なんですか?」
近づいて覗き込む。
――――――――――
森環奈
産婦人科 三宮浩二 二回
理学療法士 山本高志 一回きり
薬剤師 松井春馬 不定期
副院長 水木洋平 昔は週一
……
――――――――――
男性スタッフの名前と、謎の回数。
「鳴海先生……これは?」
聞いた瞬間、森さんが素早く紙を奪い取った。
「いい、医局にこれが……?」
「うん。落ちてたよ」
「誰にも見られてない?」
森さんの顔色が一気に青ざめる。
「たぶん。でも俺、全部覚えちゃった」
鳴海くんが不敵に笑う。
「これって森さんが――」
「あの話はなかったことにしましょう!!」
鳴海くんの声が森さんの叫びで遮られた。
「私は忘れるわ! だから鳴海先生も忘れて!」
「そうだな。変な噂は困るし」
「そうよ。噂なんて真偽不明なんだから。じゃあ失礼」
森さんは紙を握り潰し、足早に去っていった。
残された私は、ただ呆然とする。
「藤川。明日、夜勤だよな?」
「うん……」
鳴海くんの表情がまた変わる。静かな、読めない顔。
「俺も当直。夜、話がある」
「なんの話?」
「その時に」
それだけ言って分娩室へ向かっていった。
その静けさが、少し怖い。
(私、何かしたかな……)
思い当たらないまま、首を傾げる。
その夜勤の“話”が、単なる相談だとは――なぜか思えなかった。


