「聖三愛病院って芸能人とか大物政治家が入院するんでしょうー?」
「一般の方ばかりですよ。上層階に特別棟はありますけど」
「セレブ病院って、ドラマみたいなイケメンドクターがいそう。素敵ー」
ランチは思い切って知らない人たちと同じテーブルに座った。
内科病棟の看護師と、作業療法士の子。女子三人で会話はすぐに弾んだ。
(聖三愛病院に未練はあったけど、思い切ってよかったな)
そう思えるくらい、穏やかで楽しい時間だった。
――なのに。
どうしても一つだけ、気になる視線がある。
斜め左からの、この圧……
そっと目を向けると、そこにいるのは――鳴海くんだった。
隣には予告通り森さんが座っている。
セクシーな笑顔で途切れなく話しかけているのに、鳴海くんは不機嫌そうに山菜蕎麦をすすっている。そして顔を上げるたび、不服そうな目で私を見てくるのだ。
(そんな目で見ないで……一言、伝えておけばよかった……)
居たたまれなさに、少しだけ視線を逸らす。
でも、森さんに言われて他の人と交流できたのは事実だ。二人と打ち解けられた時点で、参加の目的は十分に果たせている。
そしてランチが終わり、下山が始まった。
「途中でみたらし団子、買って食べようよ」
「うんっ、楽しみ――」
言いかけたその瞬間、誰からに腕を引かれた。振り向くと、
「――鳴海先生?」
そこにいたのは真顔の鳴海くんだった。静かだけど、逃げ場のない圧をまとっている。
一緒にランチをした子立ちは空気を読んで、「……私たち、先に行くね」と去っていった。
「鳴海くん……どうしたの?」
問いかけると、無言のままスマホを突き付けられる。画面には我聞のSNS。
“明日いとこが高尾山に天狗おやきを買いに行く。
俺の好物! 早く買って帰ってこい!”
「……あ」
完全に忘れていた約束を思い出す。
「我聞に頼まれてるんだろ。早く行かないと売り切れる」
「そ、そうなの?」
「団子食べてる場合じゃないよ。行こう」
背中を押され、そのまま店を出た。
中腹の店にはすでに行列ができていた。私たちも最後尾に並ぶ。
ふと視線を感じて振り返ると、森さんが少し離れたベンチからこちらを見ていた。
(……気まずいな)
それ以上に気まずいのは、隣の沈黙だった。
鳴海くんは何か言いたげなのに、口を開かない。視線だけがわずかに険しい。
(ランチの席、そんなに嫌だったのかな……)
空気を変えたくて、私から口を開いた。
「他の人と話せて楽しかったよ。いい人ばかりで安心した」
少し遠回しな報告。
「それは、よかった」
腕を組んだまま、見下ろすように一言。表情は変わらない。
(やっぱり、怒ってる?)
「……ねえ。病棟では普通に話してるのに、今日はずいぶん冷たいね。少し森さんが気の毒に見える」
思い切って言うと、鳴海くんは心外そうに目を開いた。
「藤川の苦手なタイプは?」
「え?」
「誰だっているだろ」
その言葉で、ある人物が脳裏に浮かぶ。
……あの人
「……嘘をつく人、かな」
小さく答えると、嫌な記憶がよみがえって視線を落とした。
「藤川だって嫌いなタイプはいる」
「それは、いるよ」
「その人とプライベートでも付き合えって言われたら?」
それは無理に決まってる
「……絶対に無理」
「俺も同じ。森は同僚だから職場では関わる。でも、プライベートで無理してまで付き合うつもりはない」
はっきりと言い切る。
「……苦手なんだね」
「TPOを考えない人、好きじゃない」
価値観の問題なのだと、すぐに理解できた。
たしかに、この登山は皆で楽しむ場だ。無理に気を遣う必要はない。
(……よし、切り替えよう)
私はいつもの調子に戻る。
「我聞ね、このおやき一回で八個食べたことあるんだって」
「それ食べすぎだろ。……いや、あいつならあり得る」
「美味しいものに目がないからね」
「うちの冷蔵庫も勝手に漁るしな」
「鳴海くんちまで? さすが我聞だわ」
「今日は多めに買って帰るか」
「うんっ」
ようやく鳴海くんの表情が緩んだ。
その笑顔を見て、私はほっと息をつく。
お土産を買えば、あとは下山するだけ。
このまま、最後まで楽しく終われたらいい。
――このときの私は、そんなふうに思っていた。
♢
我聞へのお土産と一緒に、私はソフトクリームを買った。それを食べながら下っていくと、リフト乗り場が見えてきた。
「藤川、リフトに乗ってみない?」
鳴海くんが誘う。
「うんっ、乗りたい!」
少し並んで、私たちは二人乗りのリフトに乗り込んだ。左に鳴海くん。初めて乗って気づいたけど、このリフトには遊園地みたいな安全バーがない。脇の手すりだけが頼りだ。
(スリル満点じゃないの!)
怖さよりもワクワクが勝っていた。リフトが動き出し、一気に視界が開ける。
「気持ちいいー! すっごい解放感!」
ソフトクリームを持ったまま、思わず両腕を広げる。九月下旬の風が心地よく、眼下の緑もまだ鮮やかだった。
(これは最高だー!)
徐々に高度が上がる。
(高い! 眺め最高!)
私は楽しくて、子どもみたいに足をぶらぶらさせた。すると、その反動でリフトが大きく揺れる。
「すっごい揺れるー。これ、楽しいねっ」
ふと気づくと、隣が静かだ。
「鳴海くん?」
手すりを強く握り、背もたれに張りつく鳴海くんが、真顔でこちらを見ていた。
「……もしかして、怖い?」
「……かもしれない。揺らさないで」
瞳が潤んでる……
こんな鳴海くん、初めて見た
か、かわいい……!
「弱点、見つけちゃった」
私は調子に乗って、さらに足を振る。
「やめろって、藤川……!」
鳴海くんが必死に耐えている。
思わず、私は童心にかえる。
「じゃあ、これが最後ね」
そう言ってもう一度揺らそうとした、その瞬間――
「っ……!」
いきなり鳴海くんにぐいっと引き寄せられてしまう。
手すりを離した鳴海くんが、両腕で私を抱き込む。後ろに倒れそうになった身体を、逃がさないように閉じ込める。
顔が、すぐ近くにあった。
(……なに、この状況……)
心臓が一気に跳ね上がる。この距離なら、絶対に聞こえている。
「……あの、鳴海くん」
「藤川を離したら、また揺らすだろ」
「……もうしない。ごめん」
「信じない。だから、離さない」
さらに強く抱きしめられた。
苦しいはずなのに、逃げられない。顔を上げたらぶつかりそうで、そのまま胸の中に収まるしかなかった。
(このままでいいのかな。でも……あったかい……)
包まれる安心感に、頭がぼんやりしてくる。
(こんなの……勘違いするよ……)
私はふと、思い出した。
――卒業式の日。体育館裏で、誰かを待っていた鳴海くん。
あの日、告白するって聞かされて、胸が潰れそうだった。
三年間、ずっと勘違いしていたと知った日。
だから私は――
(もう勘違いで泣きたくない)
「……昔も、こんなことあったね」
できるだけ明るく言う。
「え?」
腕の力が少し緩み、鳴海くんが顔をのぞき込んだ。
「部活帰り。傘忘れて、一緒に入ったとき」
「ああ……」
「あのときも、これくらい近かったよね」
“特別じゃない”と、自分に言い聞かせるように。
「……嫌だった?」
「ううん。むしろ、鳴海くんの肩が濡れてて、申し訳なかったなって。昔から優しいよね」
ちゃんと線を引けてる?
胸は苦しいけど、私は笑った。
でも、鳴海くんは切なそうな顔をした。
「……本当は、傘を持ってたんだ」
「教室に取りに行くの面倒だったんでしょう?」
「違う! 俺は藤川と――」
――ガタンッ!
大きな衝撃で、言葉が途切れた。リフトが到着したのだ。
「……」
「……っ」
顔を見合わせて、吹き出す。
溶けたソフトクリームが、お互いの顔に飛んでいた。
「ごめん、早く食べればよかった!」
「藤川、鼻にでかいのついてる」
さっきまでの空気が、一気にほどける。
深く踏み込んだら、きっと何かが変わっていた。
でも――今は、これでいい。
楽しい思い出のままで終わらせたかった。
リフトを降りてから気づいた。三つ後ろに、森さんと山本さんが乗っていたことに。
集合場所で電車を待つ間、森さんは誰かと電話をしていた。
ふとこちらを見たとき、その口元に浮かんでいた不敵な笑みが――少しだけ、怖かった。


