無能な邪魔者のようなので消えて差し上げます~手紙を残して消えた令嬢と、彼女を利用した人々の破滅について~

「クレア。貴女は、私のたった一人の大切な子ども。私にとって、かけがえのない光。そして死にゆく私のたった一つの希望なの。貴女のこれからの人生が、どうか光り輝く幸福なものでありますように」

 それは、私が十歳の時に亡くなったお母さまの最期の言葉だった。
 

 お母さまは、お亡くなりになる一年ほど前にご自分が病気を患っていることを知った。
 そして『自分が死んだ後のために』と、当時まだ九歳だった私に伯爵家のすべての業務を引き継ぐことを決めた。

「グレー伯爵家の当主はお父様ですよね? それなのにどうしてお父様ではなく、私への引継ぎなのですか?」
 
少し学んだだけで眩暈がするようなとても子どもがやるようなものだとは思えないその仕事量と業務内容に、私はとてつもなく戸惑った。
 そもそも当主ではないお母さまがこの業務をしていることもおかしいんじゃないかな? そんな風にも思った。
そんな私の切実な質問に対して、お母さまは悲しそうに微笑んだ。

「サイラスお父様はね、業務が出来ない病気だから何も処理出来ないの。だから私がいなくなったら、クレアが頑張らないといけないのよ」

 それを聞いた時には、本当に悲しかった。
 だってお母さまもご病気で余命が少ないなかで、お父様までご病気だったなんて。
滅多にお屋敷に帰ってこないお父様とは、もともとお会いする機会自体が少なかった。その少ない時間の中でも、なんだか無視されているように感じることもあった。しかもたまにお母さまを怒鳴っていることすらあって、とても怖かった。
それでももしもお母さまがいなくなって、そのうえお父様までご病気でお亡くなりになったりなんてしたら? 私は、本当に一人ぼっちになってしまう。
そんな悲しい想像をして思わず俯いた私に、お母さまが今度は優しく微笑んだ。

「私はねクレアの聡明さを知っているから。クレアなら大丈夫だと判断して、貴女に業務の引継ぎをしているのよ。だから大変だとは思うけど、一緒に頑張りましょう」
「……はい」

 それでも自信を持てない私の頼りない返事を聞いたお母さまは、また言葉を続けた。

「それに学んだ知識や経験は、必ず未来の貴女の糧になるわ。『クレアがいなければグレー伯爵家が回らない』という事実が、貴女を守る盾になるはずよ。……それがあればいくらあの人だって、貴女を追い出すことなんて出来ないわ……」

 あの人ってお父様のこと? お父様が私を追い出す? 血の繋がった家族なのに? お母さまは何を言っているの? お父様がそんなことをするはずがないのに……。
 何も知らなかったあの時の私は、隠し切れないほどに暗い目をしたそのお母さまの様子を不思議に思うだけだった。


 あの日のお母さまの言葉や暗い表情の意味が理解出来たのは、それから一年がしてお母さまが亡くなって、そのお葬式から一か月もしないうちにお父様が再婚すると言い出した時だった。

「今日から正式に俺の妻になったエレンだ」

 何の悪びれもなく堂々とありえないことを言い放ったお父様の腕には、派手な装いの女性の腕が絡まっていた。当然かのようにお父様と腕を絡ませているその女性は、真っ赤なドレスを着て、子どもの私でも分かるくらいに濃いお化粧をしていた。
 お父様と再婚するということは今日から私の母親になるはずなのに、その女性は、だけどこちらを侮るような嫌な笑みを浮かべていた。
 その姿は、シックな色のドレスを着て薄いお化粧をしていつも上品に微笑んでいたお母さまとは真逆に見えた。

「そしてお前の妹だ。いいか!? これからは絶対にこの二人の言うことに逆らうなよ!」

 相変わらず嫌な笑みを浮かべたままの義母の隣には、大きな瞳が印象的な可愛らしい顔立ちの少女がいた。その少女は、まるでお花畑の真ん中にいるようなカラフルなドレスを着ていた。

「わぁーい! エイミーね、ずっとおねーさまに会いたかったから嬉しい!」

 お父様から名前の紹介はなかったけれど、自分のことを名前で呼ぶこの少女はエイミーというのね。
それにしても『ずっと会いたかった』なんて、お父様は一体いつから?

「……クレアです。よろしくお願いします」

 あまりに突然の出来事に戸惑いと不安しかなかった。だけどお母さまのことを怒鳴っていたお父様の様子を思い出して、お父様の機嫌を損ねないように私は必死で義母と義妹に挨拶をした。

「まぁ! サイラスの言っていた通りね。こんな時なのに動揺もしないなんて、子どものくせになんて可愛げがないのかしら」

 だけどそんな私の努力を、義母は嘲笑した。
これまでお母さまの愛情に包まれて育まれてきた私は、こんなにも露骨な悪意に晒されたことなんて一度もなくて、驚きすぎて固まってしまった。

「そうだろう。甘え上手のエイミーの方が、ずっと可愛いに決まってる。さすがエレンと俺の子だな」

 震える手を必死で抑える私のことなんてお構いなしに、お父様から放たれた言葉。むしろお父様はまるで義母から私への悪意に同調するかのように、彼女にとろけるような笑顔を向けた。
それは、お母さまや私には今までに見せたことがない表情だった。
 だけどその表情よりも私をひどく傷つけたのは、お父様が放ったその信じがたい言葉だった。

「……俺の子……?」

 お母さまが亡くなってまだ一か月も経っていないのに?
それどころかエイミーという少女は、私と同じくらいの年に見えるのに?
 
「なんだ? まさか文句でもあるのか? エイミーは正真正銘、俺の子だ! いいか!? このグレー伯爵家も、将来はエイミーに継がせるからな! 本当ならお前なんてすぐに捨てたっていいんだが、業務をあいつから全部引き継いでいるんだろう? ちゃんと働けば追い出すことだけはしないから、感謝しろ」

 そんな最低な事実を、何の悪気もないどころかこちらを威圧するように告げてくる目の前の人間が、自分と血の繋がった父親だとは思えなかった。
 あまりの事態に、まるで当然あるはずの地面が消えてしまったかのように足元が覚束なくなって、胃からは吐き気が込み上げてきた。
 だけど残酷な現実は、容赦なく畳み掛けるようにまた私を襲った。

「おねーさまの着けてるネックレス、かわい―! もちろんエイミーに、ちょーだいね? おねーさまとは、同じ年だから、好みも合いそうだよね! 後でおねーさまのお部屋も見せてね! エイミーの気に入る物があったら、もちろん全部ちょーだいね?」 
「……同じ年……?」

目の前の少女が無邪気に発した言葉は、まるで鋭い刃のように私の胸に突き刺さった。
義妹ではなくて異母妹だっただけで衝撃だったのに、同じ年? 
 だけどもう隠し切れないほどに震えだした私の身体の変化になんてまるで気づかないように、エイミーは無邪気に言葉を続けた。

「そうだよ! エイミーとおねーさまは、同じ年なんだよ! ねっ? パパ!」
「その通りだ。良く覚えていたね。エイミーは、お利口だな」

 あってはいけないはずの事実なのに、それなのにお父様は何の躊躇もなくあっさりとそれを認めた。
 同じ年の異母妹? それってつまりは私が生まれる前からお父様は、お母さまを裏切っていたということ?
 まさかお母さまは、それを知っていた? だからあんなにも暗い表情をしていたの?

「えへへ。パパがね、いつも言ってたでしょ? おねーさまはエイミーと同じ年なのに、エイミーと違って全然可愛くないって! だから覚えてたんだよ!」

 お父様が滅多にこのお屋敷に帰ってこなかったのは、その理由は、目の前にいる二人の母子の存在があったから?
 あまりに残酷な現実に、眩暈がした。
 私は、お母さまが亡くなった時には本当に悲しかった。
 悲しくて、苦しくて、涙が止まらなかった。
 あの日からまだ一か月も経っていないのに。
 私は、まるで私なんか存在しないかのように私を無視して笑い合う三人を見つめた。
 それはとてつもなく悲しい出来事のはずなのに、もうお母さまを失った時のような涙は出なかった。
 だけどきっと今の私は、お父様の話をしていたあの時のお母さまと同じくらいに暗い目をしているんじゃないかな。


「お前の婚約が決まった」
 お母さまが亡くなってから三年が経って十三歳になった頃、私はお父様からそんな通告をされた。
 婚約だなんて私の人生に関わる大切なことのはずなのに、私にはその通告を受けるまで何も知らされていなかった。
 
 お父様が義母とエイミーを連れてきて一緒に伯爵家のお屋敷で暮らし始めてから、私の生活は一変した。
 お父様と義母は、伯爵家の業務を本当に一切しなかった。
 お母さまが生きている間に引継ぎはすべて終わっていて、私はすべての業務を理解して対応出来るようになっていた。それでもそれまでお母さまと二人でこなしていた業務をすべて一人だけで行わなければならなくなって、私は毎日ひたすら業務に追われていた。
 それまで私が使っていた広くて日当たりの良い部屋からはすぐに追い出されて、私は一番狭くて日当たりの悪い部屋に移らされた。そして元の私の部屋は、エイミーの部屋になっていた。
 日中だけでなく寝る時でさえも執務室に籠っていた私には、新しい部屋で過ごす時間はほとんどなかったのだけど。
 お母さまが私のために心を込めて選んでくれた大切なドレスやアクセサリー達は、すべてエイミーの『ちょーだいね?』の一言で持っていかれた。
 たとえ手元に残っていたとしても、業務しかしていなかった私にはドレスもアクセサリーも着ける機会はなかったのだけど。
 私にはダイニングル―ムを使うことが許されなかった。
 たとえ使用が許可されていたとしても業務に追われていた私には、ダイニングルームまで行く余裕なんてなかったのだけど。
 だから食事はいつもメイドが運んでくる冷えた軽食を、書類片手に執務室で流し込んでいた。
 お母さまが生きていてお父様がお屋敷にいなかった時にはいつも優しかった使用人達は、お父様の機嫌を損ねないことだけに必死になって私に冷たく接するようになった。
 同情してこっそり私に優しくしてくれた使用人が義母に見つかって首にされてから、それは顕著になった。伯爵家の業務を私が一人で担っていると知っている執事でさえも同じだった。

 そんな日々を過ごしていた中で、いきなりお父様から初めてディナーの席に呼ばれたので、嫌な予感がしていた。
 私のその予感は当たっていて用意された末席に座った瞬間に、お父様が私を睨みつけるように先ほどの通達をした。
 全ての業務を私にさせているだけでなく、お父様は業務の進捗状況などの確認をすることさえもなかった。だから私がお父様と顔を合わせるのは、とても久しぶりだった。

「えぇー!? おねーさまに、婚約者―? エイミーにだってまだいないのに! ずるぅーい! ずるい!」

 お父様の通達には、当事者であるはずの私よりも先にエイミーが反応した。

「大丈夫だよ、エイミー。クレアの婚約相手は、アンダーソン公爵家のエルムだから羨ましがることなんて何もないんだ」

 久しぶりに会う私には睨みつけるような冷たい目線を送っていたお父様が、毎日会っているであろうエイミーにはとろけるような笑顔を向けていた。
お父様が笑顔で告げた私の婚約者の名前に、義母とエイミーは一瞬思案した後で、弾けるように笑った。

「まあ! あの有名なエルム様ですって? ふふふ。クレアにはピッタリね」
「エルム様って、エイミーだって知ってるよ! ピンクブロンドの女の子達ばっかりはべらせてる変態なんでしょう? えっ? おねーさまってば、可哀想ー」

 私もこれまでエルム・アンダーソン公爵令息にお会いしたことはなかったけれど、その名前は知っていた。
 私は、情報収集のために毎日経済紙からゴシップ誌まですべての新聞に目を通していて、エルム様については以前にゴシップ誌で特集されているのを読んだことがあったから。

 そのゴシップ誌で、エルム様は『悪い意味でとても有名だ』と書かれていた。
 この世界に魔女という存在がいることは誰もが知っているけれど、魔女達が人間の前に姿を現すことは滅多にない。
 だけど稀に、魔女が気まぐれに人間に化けて戯れに遊んでいることがある。
 少年だったエルム様が、ある少女に嫌がらせをした。嫌がらせをされた少女が実は人間に化けていた魔女であったため、その怒りをかってエルム様は呪いをかけられた。その呪いを解く方法が、『運命の恋』の相手と心から結ばれること、であるためエルム様はその相手を探している。
 そのことは社交界等では有名な事実であるとして、情報通からの匿名インタビュー等も掲載されていた。
 その記事の中では、『かけられている呪いの具体的な内容や、『運命の恋』が何なのか、その詳細は不明だが、エルム公爵令息が子爵家以下の家格かつピンクブロンドの髪色の女性達を集めていることから、それが『運命の恋』の相手の条件なのではないか?』と推測されていた。

 そんな記事が掲載されてからしばらくしてそのゴシップ誌は急に廃刊になったから、きっと公爵家から抗議なりがあったのだろうとは思う。だけどそもそもそのような不名誉な噂が立っているだなんて、公爵令息として大丈夫なのかしら? と思ったことを覚えている。
 案の定、エイミーにすら『変態』だなんて侮られているようだし。
 まさかあの記事の方と、自分が婚約することになるだなんて。
 私の心に、とてつもなく不安な気持ちが込み上げてきた。
 ううん。だけど、ゴシップ誌の記事や社交界での噂だけを基に判断するだなんていけないわ。
 私は、私自身の目で見たことを信じたい。
 現実のエルム様としっかりとお話をして、彼自身のことをちゃんと知りたい。
 真偽の分からない噂や記事に惑わされることなく、きちんとエルム様と向かい合おう、そう決意したの。

「いくら公爵令息といはいえ、『運命の恋』とやらに固執しているエルムと縁を結びたがる家はない。『運命の恋』の相手が見つかったら、婚約を破棄される可能性があるからな。でもクレアなら、たとえ婚約を破棄されて傷物になっても構わないだろう? こちらから婚約の打診をしたら、大喜びで食いついてきたさ」

 私の婚約相手がエルム様だと知って嘲笑の表情を浮かべる義母とエイミーに向かって、お父様も笑いながらそんな言葉を紡いだ。
 実の父親からそんな扱いを受けて、怒るべきなのか、悲しむべきなのか、エイミーみたいに拗ねて甘えるべきなのか。どうすることが正解なのか考えた。
 だけど、きっと私がどれを選んだとしても不正解なのだろうということは、この三年間で痛いほど理解していた。
 どんな態度を選んだとしても、それをするのが私だからダメなのだろう。
 私にはそもそも正解なんてない。私であることが不正解なの。
 本当はもう気づいていた。
 お父様が私に向かって、義母とエイミーに向けているあのとろけるような笑みを浮かべることなんてきっと一生ないのだと。

 だけどそれでも。それでもまだお父様からの愛情を諦められない自分が、心のどこかにいた。
 
「それって、おねーさまは、いつでもゴミみたいにポイって捨てられちゃうかもってこと? えー? やだー! そんなの可哀想―! いつ捨てられるのかいつもビクビクしてなきゃいけないなんて、おねーさまってば、やっぱり可哀想―」

 嘲るようにエイミーが笑った。

「クレアなんかのことを心配してやるだなんて、エイミーは本当に優しい子だな」

 そう言いながらとろけるような笑みをエイミーに向けていたお父様が、一転して厳しい顔をして私の方に視線を移した。

「お前とエルムが婚約を結ぶことで、公爵家から多額の援助を受けることが出来るんだ。いいか!? 絶対にエルムの機嫌を損ねるようなことはするなよ! お前なんかがこの家の役に立てるんだから、感謝しろ!」

 援助? グレー伯爵家の領地経営は、お母様が生きていた頃からずっと安定しているわ。だから無理に公爵家からの援助を得なくても、何も問題なんてあるはずないのに。
 それなのにお父様は、いつか突然婚約破棄を言い出すかもしれない相手に私を差し出して、そうやって私を犠牲にしてまで、不要な援助を求めるというの?
 だけどもしも本当に援助を受けられるのなら、予算の関係で見送っていた領地のために行いたい施策や災害対策の案がいくつかあった。
 それなのに今の時点で私のところに援助の件は、全く伝わってきていなかった。
 まさかお父様は、公爵家からの援助を領地のためではなく自分達の贅沢のために使おうとしているなんてことは、いくらなんでもないわよね?
 まさか、ね。だってお父様は伯爵家の当主なのに。それなのに領民を裏切るような、そんな酷いことをするはずがないわ。

「お父様。アンダーソン公爵家から援助が受けられるのなら、いくつが行いたい施策があります。まずは領地の水害に備えて、水田貯留を作りたいのですが……」

 普段から存在自体を無視されている私は、実の娘であるにも関わらずこれまでお父様と話をしたこと自体があまりに少なかった。
しかもお父様は当主であるはずなのに、業務をすべて担っている私に領地の話や業務のことを聞いてきたことがこれまで一度もなかった。だからお父様と領地のことをお話しする機会は、もう二度と訪れないかもしれない。
 せっかく訪れたチャンスなのだからと、私は勇気を振り絞ってお父様に自分の意見を伝えた。
 だけどお父様は、なぜか突然怒鳴った。

「水田? はっ! なんだ、それは!? 水害なんて、今まで一度もなかっただろうが! 小賢しいことを言って、俺を馬鹿にしてるのか!?」

 いきなり激高したお父様が恐ろしくて、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
 領地で水害が一度も発生していないだなんて、そんなことありえるはずがないのに。これまでは水害が発生したら、お母さまや私がすぐに領地に指示を出して対処していた。だから最小限の被害で済んでいただけなのに。
 それにたまたま今までは対処可能な規模だったけれど、想定外の集中豪雨などが発生する可能性だってあるのだから対策を講じておくべきだと私は考えていた。そのことは報告書にもまとめておいたのに。
 まさかお父様は、領地に関する報告書すら読んでいないのかしら?
 頭の中ではそんな反論や疑問が思い浮かんでいた。だけどお父様に怒鳴られて委縮してしまった私には、結局一言も発することが出来なかった。

「そうね。きっと自分がちょっと領地経営をしているからって、貴方のことを馬鹿にしているのよ。なんて嫌な子なのかしら」

 そんなこと私は一度も思ったことなんてないのに、決めつけるように義母が言った。
 そしてそんな無責任な義母の言葉に、なぜかエイミーも一緒になって頷いた。

「おねーさまって、そういうとこあるよねー」

 そういうとこ? そういうとこって何? 私は、お父様のことを馬鹿にしたことなんて一度もない。
 お母さまがお亡くなりになってからずっと、寝る間も惜しんで伯爵家のために働いてきた。
 それなのにお父様を馬鹿にしているだなんて、私がそんなことを思っているはずがないのに。そんなことはありえないのに。

「まったく! 嫌になる程あの女にそっくりだな! お前なんてただ無心で業務だけしていればいいんだよ! 公爵家からの援助は俺達が活用してやるから、お前は余計なことを考えるな! この家に置いてもらえていることにひたすら感謝だけして働くんだ!」

 お父様のその言葉も、私に向ける鋭い目つきも、とても血の繋がった娘に対するものだとは思えなかった。
 私が何を言ったって、きっと無意味なのだわ。
 どうして? どうして私の言葉を聞いてくれないの? 私の存在を否定するの? お父様にとって、私は、家族ではないの? 
 私は、だけど、それでも血の繋がったお父様に愛されたい。
 その気持ちを、それはか細い糸のような希望だったけれど、それでも私はどうしても捨てきれずにいた。
 だって、お母さまがお亡くなりになってから、私はずっと一人ぼっちで本当はとても寂しくて。だから。
 今よりももっとグレー伯爵家の役に立つことが出来れば、いつか私も家族だと認めてもらえるのかしら。
 そんなことを思っていたら、涙が零れ落ちそうになった。だから涙が流れないように、泣きそうなことに気づかれないように、私は俯きながら必死で堪えていた。

「そーだ! おねーさまの髪が、本当はピンクブロンドだってことは絶対に内緒だからね!」

 俯いていた私にはその発言をしたエイミーの表情は見えなかったけれど、その声は弾んでいてきっと私のことを嘲るいつものあの顔をしているのだろうと思った。

「さすがはエイミーだ! 良く気付いたね! おい、クレア! いいか!? お前が髪を染めていることは、絶対に言うなよ。もし誰かに言ったら、追い出してやるからな!」

 エイミーに続いて、恫喝するようなお父様の鋭い声がした。

「虐待だなんて騒がれても迷惑だし、この子がエルム様に愛でられても面白くないものね」

 畳み掛けるように、今度は蔑むような義母のとがった声がした。

 私は、本当はピンクブロンドの髪色をしている。

 だけど一緒に暮らし始めてからすぐに、エイミーが言ったから。

「おねーさまの髪の毛、エイミーと違ってピンクが入っててずるぅーい! どうしてエイミーの髪にはピンクが入ってないの? おねーさまだけずるい! ずるぅーい!」

 そうやってエイミーが無邪気にねだったから。
 だから、私の髪はすぐに義母から指示を受けたメイドに乱暴に染められた。
 色が違っているからずるいのならエイミーと同じブロンドにされたのかしら? と思ったけれど、私の髪色はくすんだ茶色にされていた。
 茶色いその髪色は私に合っているとは全く思えなくて、鏡に映る自分に違和感と悲しみしかなかった。
 そしてそれは一度だけではなくて、それからずっと私は定期的に無理やり髪を染められている。
 まだお茶会などにも参加していなかった私の本当の髪色は、他家には知られていなかった。だから今のこのくすんだ茶色が、私の本来の髪色だと思われているの。


「俺がお前を愛することはない!」

 エルム・アンダーソン公爵令息との顔合わせで、真っ先に初対面の彼から言われた言葉がそれだった。
 お父様と私がアンダーソン公爵家を訪れる形で行われた顔合わせの場にはアンダーソン公爵夫婦と、その嫡男でありエルム様の兄でもあるアダムさまもご同席されていた。
 そのような場であるにも関わらず、エルム様は私への暴言を吐き続けた。

「俺は、お父様に言われたから仕方なくお前なんかと婚約してやるんだ! でも三年前に第一王子の誕生日パーティーで出会った『運命の恋』の相手を見つけたら、お前とのこんな婚約はすぐに破棄してやるからな!」

 三年前の第一王子の誕生日パーティー? それって第一王子の王太子任命のお祝いも兼ねて伯爵家以上の子息・子女達が全員招かれて王宮で盛大に開かれた、あのパーティーのことよね?
 本来なら私も参加する予定だったけれど、前日にお母さまがお亡くなりになったから急遽王宮に欠席となる旨の連絡をしたのだったわ。
 エルム様はそこで『運命の恋』の相手と出会った? でも出会っているなら、見つける必要なんてないのでは? 魔女の呪いというのもそのパーティーでかけられたのかしら?
 色々と気になることはあったけれど、今はそんなことを考えている場合ではないわよね。
 それよりも問題は、これから婚約者となるはずのエルム様から私への態度よ。
 エルム様は私と同じ年のはずだから、彼だってもう十三歳でしょう? それなのに『お前なんか』と言い切ったうえに、こんなに幼稚な発言をするだなんて。まるでお屋敷の中でのお父様のようだわ。
 いくら私が伯爵家で格下だからといって伯爵であるお父様もいるのに、公爵令息のとる態度ではないのではないかしら。

「こら、エルム。そんなことを言ってはダメだろう?」
「エルムは本当に可愛いわね」

 だけど公爵と公爵夫人は、どこか作為的にも見える社交的な笑顔を浮かべただけだった。
 彼らが自分の息子を本気で窘めているわけではないことは明らかだし、可愛いという発言の意図も不明で、私は困惑してしまった。

「エルム! これから婚約する女性に向かってなんていうことを言うんだ! 婚約者を大切にすることは、当然のことだ! それにいつも言っているが、公爵家の一員として恥ずかしくない振る舞いをしなさい!」

 ただ一人アダムさまだけが、真っ当にエルム様に注意をしてくれた。そんなアダムさまの対応を見ただけで、じんわりと胸に温もりを感じた。
 お母さまがいなくなってから、私がどんなに理不尽な扱いをされたって私のために怒ってくれる方なんて誰もいなかった。
だからアダムさまは公爵家の嫡男としてただ当たり前のことを言っているだけだったとしても、それだけでも、今の私にはたまらなく嬉しかったの。

「当家は構いませんよ。アンダーソン公爵家と縁を繋ぐことが出来ただけで光栄です。不出来な娘ですが、使い勝手は良いのでいくらでも好きに扱ってください」

 それなのにお父様は、公爵夫婦におもねる様に笑った。
 実の親から侮辱するような発言をされた私を、アダムさまは痛ましそうに見ていた。
 お父様の私への扱いは、真っ当な方が客観的に見ればすぐにでも同情を寄せるほどに酷いものなのだわ。
 その事実に気づいて、胸の奥が酷く痛んだ。


「僕がお前を愛することはない!」

 正式に婚約が結ばれてからも、エルム様は私の顔を見る度に不愉快そうな顔をしてそれを告げてきた。彼にとって私は、『運命の恋』の相手が見つかるまでの仮の婚約者に過ぎないのだ。
 それなのにエルム様の機嫌を損ねたくないお父様からの提案を受け入れた公爵家との取り決めで、私は毎月お茶会のためにエルム様のお屋敷を訪れなければいけなかった。
 さすが公爵家とでも言うべきなのか、なんとエルム様には彼専用のお屋敷が与えられていた。
 そのお屋敷は、エルム様の『運命の恋』の候補者だというピンクブロンドの髪色のメイド達を集めたまさにエルム様のためのお城のような場所だった。
 そのお城でのエルム様は絶対的な権力者であり、そんな彼が私とのお茶会の席に着くことはなかった。
 いつもはエルム様が私の前に顔を出すことすらなくて、私はピンクブロンドの髪色のメイド達の悪意に晒されながら一人で嫌がらせのされた紅茶を飲んでいた。
 エルム様が珍しく顔を見せたとしても、例の言葉だけを吐き捨てるように告げてピンクブロンドの髪色のメイド達と共に去って行くだけだった。

 もしもエルム様が私にほんの少しだけでも寄り添ってくれたのなら、たとえお父様達に口止めをされていたとしても、私は彼に自分の髪色の真実を告げたのに。

 もしも私が本当はピンクブロンドの髪色なのだと知ったのなら、エルム様はいつも侍らせているピンクブロンドの髪色のメイド達と同じくらいには私に優しくしてくれるのかしら?
 そんな風に考えてしまう時もあったけれど、まともにお話をする機会さえ与えられない私には、彼に真実を告げることなんて出来るはずもなかった。


 十五歳になった私は、王立学園に通うことになった。
 王立学園に通うことは義務ではないけれど、この国の貴族であれば余程のことがない限りほとんどの令息・令嬢は通っている。それなのにお父様は、私のために学費を払うことを渋っていた。だけどさすがに公爵令息の婚約者が学園に通わないことはありえないということは理解していたのか、仕方なく入学することを認められた。
 私の現実は、エルム様と婚約をした十三歳のあの頃から少しも変わっていなかった。
 執務に追われ、家族や婚約者からは蔑ろにされ、使用人からも侮られていた。
 だから学園に通い始める前は、初めて飛び込む外の世界にほんの少しワクワクする気持ちがあった。
 もしかしたら初めての友達が出来るかもしれない、私にとっての居場所が出来るかもしれない、そんな期待に胸を膨らませていたの。
 だけどそんな期待は、風船が割れるみたいにあっけなく壊れて消えた。
 だって学園にはエイミーがいたから。
 私にとって不幸なことに、異母妹でありながら私と同じ年のエイミーは、同じタイミングで学園に入学した。
 
「お姉様は、いつも私に意地悪なことを言うの。きっと長女の自分じゃなくて妹の私が伯爵家の跡継ぎなのが、悔しくてたまらないんだわ。私が跡継ぎになることは、お姉様の出来があんまり悪いからってお父様が決めたことなのに」

 エイミーは学園に入学してからすぐに、『妹の自分が伯爵家を継ぐことを嫉妬した姉に家でいつも虐げられている』という嘘を学園中で吹聴しだした。
 元平民とはいえ現伯爵夫人との実の娘かつ伯爵家の跡取りに指名されていて、まだ婚約者もいなくて顔も可愛いエイミーは、婿入り先を探している次男・三男の令息達から人気がありもてはやされていた。
 そもそも私の婚約者が悪名高いエルム様であることから、亡き前妻の娘である私の伯爵家内での立場は察せられていたのだろう。さらに婚約者であるエルム様は、学園でも完全に私を無視していた。
 実家からも婚約者からも蔑ろにされている私とわざわざ仲良くしたいという方なんているはずがなかった。ましてや私を庇ってエイミーの主張を否定する人間なんて、この学園にいるはずもなかった。
 そして本来であればお父様と義母がするはずの業務をすべて一人で担っている私には、もともと時間が足りていなかった。そのうえ学生生活も始まってからは、圧倒的に時間が足りなくなった。
 エイミーのことがなかったとしても、授業が始まる直前に登園して授業が終わると駆けるように帰っていく私には、友人なんて出来るはずがなかったのかもしれない。
 そのうえ学園では私に虐げられていると吹聴しているエイミーが、家では課題などをすべて私に押し付けてきた。

「おねーさま。エイミーは、跡取りとしてのお勉強が大変なの。だから跡取りに選ばれなかったおねーさまは、せめてエイミーの分もやってちょーだいね?」

 学園では『お姉様』『私』と言えているのに家では子どもの頃と変わらない口調のエイミーに呆れながらも、私にはエイミーのお願いを断れなかった。
 エイミーが後継者としての勉強なんて何もしていなくて、いつもお父様や義母と遊び歩いていることは知っていた。それに私にはエイミーの課題までする時間の余裕なんてとてもなかったから、最初はエイミーのお願いを断った。だけどそれを知ったお父様からは怒鳴られたうえに、義母の指示で食事を抜かれてしまった。
 それなら睡眠時間を削ってでもエイミーの課題を仕上げる方が、まだマシだと思えた。
 そんな風に毎日時間に追われ続けた私は、学園に入学して半年が立つ頃にはすっかり疲弊しきっていた。
 それでも努力していれば。私がもっともっと努力をして彼らの役に立てば、いつかお父様やエルム様から褒められる日がくるかもしれない。
 私がもっと努力すれば。もしかしたら、そう、もしかしたらいつか愛される日がくるかもしれない。
 心も体も疲弊して消耗していくだけの日々のなかで、そんな思いだけで私はなんとか自分自身を奮い立たせていた。 
 

「君は、とても字が綺麗だね」
 ある日突然頭上から響いたその澄んだ声は、疲弊し切った私の心に染み渡るようだった。
 学園でも友人が一人もいない私は、昼休みには一人で図書室に行き勉強をしていた。昼休みの図書室はいつだってとても空いていたし、そうでなくてもわざわざ私に話しかけてくる方なんていないので、私はいつも誰とも何も話すことなくその時間を過ごしていた。
 その日もいつものように一人で勉強をしていた私は、いつものように誰からも話しかけるはずなんてなかったのに。
 それなのにふいに話しかけられて、そんなことは入学してから一度もなかったから驚いた私は、慌ててノートから顔をあげた。
 そんな私の目に飛び込んできたのは、煌めく青い瞳だった。

「……ブライアン第二王子殿下……」

 学園で誰かから話しかけられただけでも驚きなのに、そのあまりの相手に驚いて咄嗟にお名前を呼んでしまった。
 そんな私の言葉に、第二王子殿下はなぜか酷く驚いているように見えた。
 いきなりお名前をお呼びしてしまって不敬だったかしら? そう不安に思ったけれど、第二王子殿下が私を咎めることはなかった。

「……僕のことを、知っていたんだね」
「はい。お話をさせていただくのは初めてですが、第二王子殿下のお顔はもちろん存じております」

 国の重要人物達は新聞に顔写真が載ることもあるし、何より第二王子殿下は学園の入学式で生徒代表としてご挨拶をされていたもの。

「君は、グレー伯爵家のクレア嬢だよね?」

 それは、確信を持った疑問形だった。
 どうして第二王子殿下が伯爵家の娘に過ぎない私の名前を知っているの? そのことに戸惑いつつも、私は答えた。

「ご挨拶が遅れて、失礼致しました。グレー伯爵家のクレアと申します」
「アンダーソン公爵家のエルムの婚約者だね」

 そう言った第二王子殿下の顔は、柔らかい中にほんの少し陰りがあるように感じた。
 だけどその言葉で、私の疑問は解消した。ああ、高位貴族であるエルム様の婚約者だから、私のことも知っていたのね。


「こんにちは、クレア。今日も良い天気だね」

 それからブライアン様とは、図書室でお会いするたびに言葉を交わすようになった。
 初めてお話しをした日に『一人になりたい時には図書室に来ているんだ』と微笑んでいたので、私から話しかけるのは躊躇していた。
 だけど毎回ブライアン様の方から気さくに話しかけてくれた。それだけでなく、いつも一人で過ごしている私に同情しているのか、ブライアン様はいつだって労わるように私を見つめてくれた。

「クレアは、もっと皆から認められるべきだと思うのに……」

 家族や婚約者からは蔑ろにされていて友人すらも出来ない私を、ブライアン様だけが気にかけてくれて、いつも優しく話しかけてくれた。
 だからいつからかブライアン様と他愛のない話をする図書室でのその短い時間だけが、私にとっては唯一の心穏やかな時間になったのは必然なのかもしれない。
 それはまるで。灼熱の砂漠をさ迷っている中で、やっと見つけた一滴の雫のような。真っ暗な闇の中をさ迷っている途中で、やっと差し込んだ一筋の光のような。
 ブライアン様と過ごす時間は、私にとってそういう時間だった。

 だって、私の現実は。

「お前の母親とは、俺の代わりに仕事をさせるためだけに結婚してやったんだ! 俺の家族は、ずっとエレンとエイミーだけだ!」
「ちょっと仕事が出来るからって、いつも無表情で可愛げがない子だわ」
「おねーさま。それ、学園での課題の刺繍でしょ? もちろんエイミーにちょーだいね? くれないなんて意地悪されたら、パパに泣きついちゃうからね?」
「奥様からの指示で髪を染めます。……ちょっと! 抵抗しないでよ。染めなきゃ私が怒られるんだから、大人しく染めさせてよ!」
「こちらの書類は至急扱いなので、必ず今日中に処理してください。睡眠時間? そんなことを私に言われても困ります。クレア様に業務をしていただくことは、ご当主様からのご指示ですので」
「お前を愛することはない!」
「エルム様は今日も来ないわよぉ。嫌われているのに毎月馬鹿みたいにやってきてぇ、惨めすぎて笑えるぅ」

 お父様、義母、異母妹、伯爵家のメイド、執事、婚約者、婚約者のお屋敷のピンクブロンドの髪色のメイド達。周りの人間すべてから侮られる存在。
それが、私の現実、だったから。

 だからただ一人学園でいつも優しく話しかけてくれるブライアン様を、私は心の中で密かに慕っていた。
 でももちろんそれは、あくまで私の心の中でだけ。
ブライアン様にこの現実から救って欲しいだとか、想いを返して欲しいだとか、そんなことを願っていたわけじゃない。
 私が願っていたのは、やっぱり本来あるべき愛情だけだった。血の繋がったお父様や婚約者であるエルム様と心を通わせたい、とただそれだけなの。
 家族や将来家族となる人から愛されたいと願うのは、そんなに贅沢で夢のようなことなのだろうか?
 相手のために尽くしたらその分だけでも愛情を返して欲しいと望むのは、そんなに我儘で手の届かないほどの希望なのだろうか?
 だけど本当は。私の願いが叶うことなんてないって、私が彼らから顧みられることなんてありえないって、心のどこかではきっともうとっくに理解していた。
 理解していても、それでもなお私は、やっぱり心の底では諦められなかった。
 彼らのことを、彼らからの愛情を、心のどこかで諦められずにいた。
 だからこの期に及んで私はまだ、彼らのために尽くすことを止められなかった。
 そんな私は、想像もしていなかったの。

 まさか自分が何の未練もないどころかむしろ清々とした気持ちで、手紙だけ残して彼らの元から去る日がくるだなんて。