僕だけが知ってる恋の記憶の欠片~若年性認知症の恋

「実は、あの人にしつこく付きまとわれて迷惑していたんだ。嫌がってもやめてくれなくて……」
陽子の言葉を聞き、愛斗は彼女が抱えていた不安の大きさを知った。
「そうなの。また何かあったら、すぐに僕に話してね」
「はい、ありがとう。愛斗くん」
ふと見ると、陽子が怪我をしていることに愛斗は気づいた。先ほどの騒動の際につくった傷だろうか。愛斗は丁寧に彼女の手当てを済ませ、愛おしさを込めて唇を重ねた。
名残惜しそうに身体を離したちょうどその時、薫が帰宅した。
「お帰り、薫」
愛斗が迎えると、薫は陽子の様子を見て顔を曇らせた。
「ただいま。お母様、その怪我……大丈夫なの?」
「うん。愛斗くんに手を出す女がいたから、攻撃したのよ」
陽子の真っ直ぐすぎる言葉に、薫は「え?」と戸惑いの声を漏らす。
愛斗はすかさず説明を補足した。
「実はさっき、陽子さんが少し興奮しちゃってね。同じマンションの美波さんにベタベタされた時、『私の彼に手を出すな!』って彼女に覆いかぶさるようにして……。その時に少し軽い怪我をしちゃったんだ。僕を守ろうとしてくれたのは嬉しいんだけど、あんなに激しくなるとは思わなかったから、薫にも伝えておこうと思って」
「そうだったんだ……教えてくれてありがとう」
薫は納得したように頷いた。 
愛斗は念を押すように付け加える。
「でも、悪いのは美波さんだから。陽子さんは悪くないよ」
「うん、わかったわ」
夜の帳が下りる頃、陽子は台所へ立ち、弾んだ声を出した。
「愛斗くんと薫に、夜ご飯を作るからね」
「ありがとう、陽子さん」
「うん、カレーを作ってあげる!」
愛斗は微笑んで提案した。「ありがとう。じゃあ、みんなで一緒に作りましょうか」
「はい!」
しかし、冷蔵庫を覗くと材料が足りない。三人は連れ立って夜の街へ買い出しに出かけることにした。
スーパーでカレーの材料と飲み物を買い込み、外のベンチで一休みする。
子がいちごミルクのパックを手に、ストローの差し込み口をじっと見つめて苦戦していた。
愛斗は優しくやり方を教えながら、代わりにストローを刺して渡してあげる。
「ありがとう、愛斗くん」
「いいよ。こぼさないように飲むんだよ」
「うん」
三人の間には、穏やかで温かい時間が流れていた。
帰宅後、テーブルにずらりと食材を並べ、三人はお揃いのエプロンを締めた。
「お母様はお肉に塩コショウをしてくださいね」
薫が指示を出すと、陽子が不思議そうに首を傾げた。
「こしょう……? こしょうって何?」
「これが『こしょう』ですよ」
薫は小瓶を手渡し、丁寧に説明した。陽子はその言葉を反芻するように繰り返す。
「これが、こしょう……」
新しい知識を得たのが嬉しいのか、陽子はふふっと声を立てて笑った。
「また一つ、大発見をしましたね、お母様」
薫の言葉に、陽子は満足そうに「うん!」と頷いた。
陽子に一から手順を教えながらの調理は、気がつけば二時間を経過していた。ようやく完成したカレーを囲み、三人は手を合わせる。
「いただきます」
一口食べると、スパイスの香りと愛情が口いっぱいに広がった。
「カレーを作るのに二時間もかかっちゃった。愛斗くん、薫、待たせてごめんなさい」
陽子が申し訳なさそうに眉を下げると、愛斗は顔をほころばせた。
「大丈夫だよ。このカレー、すごく美味しいよ」
「ならよかった……!」
賑やかな夕食の時間が終わり、片付けを済ませた愛斗は、名残惜しさを感じながらも自分の家へと帰った。心地よい疲れに身を任せ、テレビを眺めているうちに、愛斗は深い眠りへと落ちていった。