僕だけが知ってる恋の記憶の欠片~若年性認知症の恋

団地の一室に流れる時間は、外の喧騒とは切り離されたかのように穏やかだった。
元介護士の末山愛斗は、同じ団地に暮らす若年性認知症を患う女性、竹山陽子と静かな恋を育んでいる。
愛斗の専門的な知識と献身的な姿勢は、陽子の家族からも深く信頼されていた。この日も、陽子の友人である竹山薫が仕事へ向かう間、愛斗が彼女の身の回りの世話を引き受けることになっていた。
「それじゃあ、お母さん、よろしくお願いしますね」
出勤の準備を整えた薫が、愛斗に声をかける。
「任せてください。気をつけて行ってらっしゃい」
短い挨拶と、今日の体調についての申し送り。幾度となく繰り返されてきたそのやり取りを終えると、愛斗は陽子の待つリビングへと足を向けた。
陽子は窓際で、柔らかな日差しを浴びて座っていた。愛斗が傍らに歩み寄り、静かに声をかける。
「陽子さん、今日はいい天気ですね」
陽子はゆっくりと顔を上げると、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「愛斗くん、今日も本当にイケメンだね」
「……ありがとう、陽子さん」
少し照れたように笑う愛斗の頬に、彼女はそっと唇を寄せた。それは、言葉にできない想いを確かめ合うような、優しいキスだった。
幸せな静寂に包まれているうちに、時計の針は正午を指していた。
「さて、お昼にしましょうか」
愛斗が準備した昼食をテーブルに並べると、二人は向き合って座る。
「美味しそう」
「たくさん食べてくださいね」
団地の一角、日常という名の物語の中で、二人は穏やかにおいしい時間を分かち合った。
分け合い二人はたべた。
食事を終えた二人は、腹ごなしに外へ散歩に出かけることにした。

団地の敷地内を歩き始めると、愛斗は自然に陽子の手を握った。繋いだ掌から伝わる温もりが、二人の絆を確かめる儀式のように心地よい。しかし、そんな穏やかな時間を壊す影が近づいてきた。

同じ団地に住む住人、美波だった。彼女は愛斗を見つけるなり駆け寄り、陽子の存在を無視するようにして愛斗の腕にベタベタとしがみついてきた。
「ちょっと愛斗、どこ行くの?」
「……迷惑だからやめろ。離してくれ」
愛斗は露骨に嫌悪感を示し、美波を引き剥がそうとした。だが、美波は不敵な笑みを浮かべて離れようとしない。「別に減るもんじゃないし、いいじゃない」
その時だった。それまで静かに隣にいた陽子の目つきが変わった。
「私の彼に手を出さないで!」
鋭い叫びとともに、陽子が美波を力一杯突き飛ばした。不意を突かれた美波が地面に転がると、陽子はその上にのしかかるようにして覆いかぶさった。
「愛斗くんは……私のなの!」
普段の穏やかさからは想像もつかない陽子の激しい独占欲と、執念にも似た守護本能。剥き出しの感情に、その場は凍りついた。
「陽子さん、もういい! 落ち着いて!」
我に返った愛斗は、慌てて陽子の体を抱き上げた。興奮で震える彼女を壊れ物を扱うように強く抱きしめ、背中を優しくさする。「大丈夫、僕はここにいるから……大丈夫だよ」
愛斗は、地面に寝そべったまま呆然としている美波には目もくれなかった。  
彼女の謝罪や抗議を聞くつもりも、助け起こすつもりもなかった。ただ愛する陽子の心を守るためだけに、彼女を抱きかかえるようにして部屋へと戻った。
静まり返った室内で、愛斗は再び陽子をぎゅっと抱きしめた。
「陽子さん、ごめんなさい。僕のせいで怖い思いをさせて……」
申し訳なさで声を詰まらせる愛斗の胸の中で、陽子は少しずつ呼吸を整え、決然とした口調で言った。
「いいの。愛斗くんに手を出す女は、私、絶対に許さないから」
認知症という霧の中でも、愛斗を守りたいというその意志だけは、誰よりも鮮明で、鋭く輝いていた。