海沿いの断崖に建つ王家の別荘は、王都の華やかさとは無縁だった。
苔に覆われた外壁、崩れかけた石畳、軒下には使われなくなった海鳥の巣。潮風が吹き抜けるたびに、どこかから外れた鎖の金具がカランと鳴る。
馬車を降りると、強い潮の匂いが鼻腔を満たした。湿った空気は肌にまとわりつき、遠くの海では波が断崖を打ち砕いて白く砕けている。
足元は雨で滑りやすく、石の目地に苔が生えていた。
「足元にお気をつけください、オリヴィア様」
横に立つシャーロットが、自然な仕草で肘を差し出す。
その腕に素直に触れるか一瞬迷ったが、頼らせてもらった。
「ありがとう」
またしても口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
シャーロットもわずかに目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
(ああもう不用意ね……今の私の口から出るべき言葉じゃない。しっかりしないと)
別荘の玄関扉は重く、錆びた蝶番が低く軋んだ。
中に入ると、潮の匂いと古い書物の匂いが混ざり合った空気が迎える。
形だけの暖炉には魔法火が入っていたが、壁は冷たく、床板も湿り気を帯びている。
案内された部屋は広いが、どこか人の気配が薄かった。
家具は最低限、シーツは冷たく、窓の外は灰色の海。
療養地というより、穏やかな幽閉先――それが第一印象だった。
(ここがもし、そうだったなら、やっぱり忌避されているから手入れが少ないのかしら……。それとも別の理由……?)
着替えを終えると、身体の奥に鈍い痛みが広がった。
封印解除の後遺症。骨を軋ませるような痛みと微熱、痺れ。
ベッドに横たわり、重いまぶたを閉じる。
◇◇◇
夢の中――そこは魔界だった。
赤紫色の空に黒曜石の塔が立ち並び、その間を洗濯物がはためき、香草の匂いが漂ってくる。
振り返ると、ノクティレアが笑って立っていた。
「おかえり。よく頑張ったね」
ふくよかな体を柔らかな布で包み、エプロン姿のまま、大きな手でオリヴィアの頬を撫でる。
額に、しつこいほどキスを落とし、抱きしめてくれた。
「泣かないの。いつも言ってたでしょう?体に魂が呼ばれても、オリヴィアはこの家にちゃんと帰って来られるって。」
「……母さん……」
声が震える。涙が頬を伝う。
ノクティレアは何も聞かず、ただ腕の中で包んでくれる。
ウインナーの入ったスープ、砂糖をまぶした甘いパンの匂いが漂い、心が満たされていく。
全部私の好物だ。
「大丈夫。全部、大丈夫だからね。愛してるよ、オリヴィア」
その言葉が、胸の奥の痛みをそっと溶かしていった。
夢だと分かっていても嬉しい。夢だと分かっているからオリヴィアは泣いて駄々をこねた。
暖かな場所に帰りたい。母さんの元に帰りたい。
どうして一度愛情を知ってから、誰も愛してくれない場所に引き戻されなければいけないの!
私が何をしたの!?
オリヴィアはまだ十五歳だ。いくら知識があろうと特殊な身であろうと、たった十五歳の少女だ。
九割九分見限ったと思ってはいるが、それでも自分が大勢の前で窮地に陥ったと聞いて、血を分けた両親が庇うどころか暴力で迎えれば、全く何も思わないわけではない。
「本当の家族の家にいたい、もう帰して……」
何度も何度もノクティレアに聞いた質問だった。この日が怖くて怖くていつも怯えていた。
「オリヴィア、ごめんね」
その度に母さんに悲しい顔をさせた。
「あなたは私の、悪魔の娘だから、きっと賢く知恵を巡らせて戻って来られる。くだらない人間どもに構う必要なんかないわ」
キッパリと言い切るノクティレアのおかげで、ぐしょぐしょの顔のままだがオリヴィアはノクティレアから顔を離せた。
「帰って来てからパーティーしましょう!チキンとドリアとカボチャのスープと……好きなものは全部作ってあげる!」
実はかぼちゃのスープはそこまで好きではないのだが、ノクティレアはオリヴィアが一度美味しいと言ったのを覚えていて、よく作ってくれるのだった。
◇◇◇
目を覚ますと、外は夜だった。
窓の外では波の音が絶え間なく響き、時折、潮風が窓を叩く。
身体は重く、関節が痛む。
扉をノックする音がした。
「オリヴィア様、勝手に失礼いたします」
入ってきたシャーロットが盆を持っていた。蒸気の立つ薬湯から、香草の匂いが立ち上る。
「お目覚めでしたか。良かったです。お熱があるようでしたので、近隣の薬師に処方してもらいました。少しでも楽になりますように」
「……ありがとう」
また言ってしまった。しかし、不思議と後悔はなかった。
薬湯は苦かったが、香りが心を落ち着かせる。
(早く回復しなければ……母さんのところへ帰るために)
胸の奥で、決意が静かに固まる。
苔に覆われた外壁、崩れかけた石畳、軒下には使われなくなった海鳥の巣。潮風が吹き抜けるたびに、どこかから外れた鎖の金具がカランと鳴る。
馬車を降りると、強い潮の匂いが鼻腔を満たした。湿った空気は肌にまとわりつき、遠くの海では波が断崖を打ち砕いて白く砕けている。
足元は雨で滑りやすく、石の目地に苔が生えていた。
「足元にお気をつけください、オリヴィア様」
横に立つシャーロットが、自然な仕草で肘を差し出す。
その腕に素直に触れるか一瞬迷ったが、頼らせてもらった。
「ありがとう」
またしても口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
シャーロットもわずかに目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
(ああもう不用意ね……今の私の口から出るべき言葉じゃない。しっかりしないと)
別荘の玄関扉は重く、錆びた蝶番が低く軋んだ。
中に入ると、潮の匂いと古い書物の匂いが混ざり合った空気が迎える。
形だけの暖炉には魔法火が入っていたが、壁は冷たく、床板も湿り気を帯びている。
案内された部屋は広いが、どこか人の気配が薄かった。
家具は最低限、シーツは冷たく、窓の外は灰色の海。
療養地というより、穏やかな幽閉先――それが第一印象だった。
(ここがもし、そうだったなら、やっぱり忌避されているから手入れが少ないのかしら……。それとも別の理由……?)
着替えを終えると、身体の奥に鈍い痛みが広がった。
封印解除の後遺症。骨を軋ませるような痛みと微熱、痺れ。
ベッドに横たわり、重いまぶたを閉じる。
◇◇◇
夢の中――そこは魔界だった。
赤紫色の空に黒曜石の塔が立ち並び、その間を洗濯物がはためき、香草の匂いが漂ってくる。
振り返ると、ノクティレアが笑って立っていた。
「おかえり。よく頑張ったね」
ふくよかな体を柔らかな布で包み、エプロン姿のまま、大きな手でオリヴィアの頬を撫でる。
額に、しつこいほどキスを落とし、抱きしめてくれた。
「泣かないの。いつも言ってたでしょう?体に魂が呼ばれても、オリヴィアはこの家にちゃんと帰って来られるって。」
「……母さん……」
声が震える。涙が頬を伝う。
ノクティレアは何も聞かず、ただ腕の中で包んでくれる。
ウインナーの入ったスープ、砂糖をまぶした甘いパンの匂いが漂い、心が満たされていく。
全部私の好物だ。
「大丈夫。全部、大丈夫だからね。愛してるよ、オリヴィア」
その言葉が、胸の奥の痛みをそっと溶かしていった。
夢だと分かっていても嬉しい。夢だと分かっているからオリヴィアは泣いて駄々をこねた。
暖かな場所に帰りたい。母さんの元に帰りたい。
どうして一度愛情を知ってから、誰も愛してくれない場所に引き戻されなければいけないの!
私が何をしたの!?
オリヴィアはまだ十五歳だ。いくら知識があろうと特殊な身であろうと、たった十五歳の少女だ。
九割九分見限ったと思ってはいるが、それでも自分が大勢の前で窮地に陥ったと聞いて、血を分けた両親が庇うどころか暴力で迎えれば、全く何も思わないわけではない。
「本当の家族の家にいたい、もう帰して……」
何度も何度もノクティレアに聞いた質問だった。この日が怖くて怖くていつも怯えていた。
「オリヴィア、ごめんね」
その度に母さんに悲しい顔をさせた。
「あなたは私の、悪魔の娘だから、きっと賢く知恵を巡らせて戻って来られる。くだらない人間どもに構う必要なんかないわ」
キッパリと言い切るノクティレアのおかげで、ぐしょぐしょの顔のままだがオリヴィアはノクティレアから顔を離せた。
「帰って来てからパーティーしましょう!チキンとドリアとカボチャのスープと……好きなものは全部作ってあげる!」
実はかぼちゃのスープはそこまで好きではないのだが、ノクティレアはオリヴィアが一度美味しいと言ったのを覚えていて、よく作ってくれるのだった。
◇◇◇
目を覚ますと、外は夜だった。
窓の外では波の音が絶え間なく響き、時折、潮風が窓を叩く。
身体は重く、関節が痛む。
扉をノックする音がした。
「オリヴィア様、勝手に失礼いたします」
入ってきたシャーロットが盆を持っていた。蒸気の立つ薬湯から、香草の匂いが立ち上る。
「お目覚めでしたか。良かったです。お熱があるようでしたので、近隣の薬師に処方してもらいました。少しでも楽になりますように」
「……ありがとう」
また言ってしまった。しかし、不思議と後悔はなかった。
薬湯は苦かったが、香りが心を落ち着かせる。
(早く回復しなければ……母さんのところへ帰るために)
胸の奥で、決意が静かに固まる。

