タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 春になった。
 王都の石畳から雪が消え、代わりに薄い花びらが風に舞うようになった。屋敷の中庭では、冬の間に枝だけになっていた木々が、うっすらと緑を取り戻しつつある。日の差す時間が長くなり、午後の応接室にはやわらかな光が満ちていた。

 キャサリンは机の前に座り、書類に目を落としていた。
 手を動かしながら、隣の気配をときおり確かめる。
 エマは今日、静かだ。
 いつもと変わらない所作で部屋の端に控え、必要があれば前に出る。声音も表情も、いつもと変わらない。

 変わらないはずなのに、どこかが違う。

 ――何かしら。

 キャサリンはペンを走らせながら、侍女のほうへと横目をやった。
 エマは窓の外を見ていた。
 視線の先には、中庭の木々がある。
 ほんの一瞬のことだったが、確かにキャサリンはそれを見た。
 エマが目を細めて、春の緑をじっと見つめていたのだ。

 ――珍しいわね。

 感傷的な顔など、めったにしない侍女だ。
 キャサリンは何も言わなかったが、代わりに机の引き出しを開けて、畳んでいた紙を一枚取り出した。数日前から用意していたものだった。

「エマ」
「はい」

 すぐに侍女が前に出る。顔には、いつもの無表情が戻っていた。

「今日の午後、少し出かけてもらえるかしら。王都の東側、リネン通りの仕立て屋に布地の確認を頼みたいの。指定の色見本と照合して、問題なければ受け取ってきてちょうだいな」

 紙を差し出す。
 受け取ったエマが、すぐさま内容に目を通した。

「承知しました。午後の三時までには戻れるかと」
「急がなくていいわ。夕方で十分よ」

 エマが小首を傾げる。
 普段のキャサリンであれば、用件が終わり次第戻るように指示していたはずだ。わざわざ夕方まで猶予を持たせる理由に、エマには心あたりがないと見える。

「どうかなさったのですか?」
「何も……。ただ、ついでに春の王都でも眺めて来なさいな。あなた、最近ずっと屋敷にこもりっぱなしでしょう?」

 ここ数週間、エマは仕事以外ではほとんど外に出ていない。

「外の空気を吸うのも仕事のうちよ。そういうことにしておくわ」

 エマがわずかに目を細める。何か言いかけるように口を開いたが、結局は恭しく返事をするだけだった。

「かしこまりました」

 短く答えて、一礼をする。
 その顔には何も浮かんでいない。
 ただ、部屋を出ていく直前に、もう一度だけ窓のほうへと視線をやったのを、キャサリンは見逃さなかった。

 扉が閉まる。
 静かになった応接室に、キャサリンはペンを置いた。

 ――今日は、ダライアスの命日だったわね……。

 エマの夫だ。
 キャサリンがエマを侍女として雇い入れたのは、ダライアスの死から1年が経った頃のことだった。エマはその理由を語ったことがない。だが、エマの生家がひどく没落していたことは、調べればすぐにわかる。ほかに選択肢がなかったのだと、キャサリンは理解していた。

 今日という日に、エマが何を思っているのかは知らない。
 尋ねるつもりもない。
 ただ、1人でいる時間を作ることだけは、キャサリンにもできた。

 ――まあ……それくらいしか、できないのだけれど。

 キャサリンは窓の外に目をやった。
 中庭の木が、春風に揺れている。
 花びらが1枚、ふんわりと空に舞い上がって、どこかへと消えた。
 キャサリンは何も言わずにまたペンを取った。