タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 王都の外れに、古い長屋が並ぶ一角がある。
 石畳が整っておらず、路地は狭く、夜になれば街灯も灯らない。間違っても、貴族の馬車が迷いこむような場所ではなかった。

 冬の夕暮れ時、その路地を一人の浮浪者が歩いていた。
 くたびれた外套。
 くすんだ色の帽子を目深に被り、背中を丸めてとぼとぼと歩く。
 汚らしい格好だ。
 手には、ぼろ布に包まれた小さな荷物だけが見える。

「また来たよ」
「あの物乞い、懲りないねえ」
「いつもルーシーさんのところへ行くんだろう? 無心しても、たかれるものなんてないだろうに」

 路地の住人たちが、窓越しにひそひそと言葉を交わす。
 浮浪者はそれを聞いているのかいないのか、足を止めることなく長屋の奥へと進んでいく。
 一番端の扉の前で、立ち止まった。
 三度、小さくノックする。

「……ビオラかい?」

 扉の向こうから、しわがれた声が届いた。
 まもなく、扉が静かに開く。
 出迎えたのは、小柄な老婆だった。ルーシーという名の女性だ。白髪を無造作にまとめ、薄汚れた割烹着を身につけている。

 その目は澄んでいて、深いところに穏やかな光をたたえていた。

「寒かっただろう、早く入りな」

 促されるままに浮浪者が中へと入る。部屋の奥には、出迎えるように小さな暖炉の火が揺れていた。

 ビオラは帽子を脱ぎ、外套を椅子の背にかける。
 その下には、ほかの場所では決して見せないような、素朴な装いがあった。

「今月分です」

 ぼろ布の包みを解く。
 中からは信じられないほどたくさんの硬貨が顔を表していた。中身を確かめたルーシーが、かすかに目を細める。

「また増えているじゃないか」
「収入が多かったものですから」
「嘘をおつき」

 ルーシーは包みをテーブルに置き、ゆっくりとビオラのほうを向いた。心なしか、受け取るのを拒んでいるようにも見える。

「あんたの顔を見ればわかる。ずいぶんと無理をしているよ」
「ふふ、していませんよ」

 ビオラは花のように笑う。
 その笑顔に、ルーシーは胸が打たれたように、悲しげな表情を浮かべた。

「もう十分……十分だよ、ビオラ。息子のために、お前は必要以上のことをしてくれた」

 ルーシーの声が、少しだけ震えていた。

「もう自分のために生きるんだ……。幸せになるんだよ。正式な婚約もしていない間柄じゃないか。こんなにはしてもらえないよ。あの子はそういう星のもとに生まれたんだ」

 ビオラはすぐに答えなかった。
 代わりに、テーブルの上の包みを老婆のほうへと押しやる。

「いいえ。心配しないでください、お義母さま。ハインリッヒ様の治療費は、必ず私が負担します。どれだけ高額だろうと、すべて私につけてください。絶対に払いますから」

 絶対という言葉がふさわしいほどに、ビオラの目に宿った意思は固く見えた。

「……。馬鹿な子だよ、あんたは」

 ルーシーが鼻をすする。
 ビオラは何も言わず、ルーシーの言葉を待った。

「あの子も、お前以上に馬鹿だった。どうして、あんたみたいなのを残して死のうとしたんだ…….」

 老婆は暖炉の炎を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。
 声が途切れる。

「ハインリッヒは最後の日、あんたに会いに行くと言っていた」

 ビオラの手が、膝の上でかすかに動いた。

「……私は何も」
「疑っているわけじゃないさ。ただ、私も不思議なんだ。嘘をついてまでどこに行こうとしたのか……。同じ人間が、この世に2人といるはずないのにね」

 ハインリッヒが首を吊ったのは、一昨年の冬のことだった。冬なのによく晴れて、少し暑いくらいの日だったので、ビオラはよく覚えていた。

 ハインリッヒがどうして自殺をしようとしたのか、その理由をビオラはいまだに知らない。
 知らせを受けて駆けつけたとき、縄の外されたハインリッヒにはすでに呼吸がなく、一命は取り留めたものの、それからついぞ目を開けることがない。

「そろそろ失礼しますね」

 ビオラが立ち上がる。
 ルーシーが、小さな声で「気をつけて」と言った。
 扉を閉めるときも、ビオラは振り返らなかった。