タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 王立音楽院の大ホールは、昼過ぎから人で埋まりはじめていた。
 前回と同じ光景だ。
 天井の高い石造りの空間に、貴族、研究者、音楽家、院の関係者が一堂に会している。正面の壁には院の紋章が刻まれた石板。客席のざわめきは期待と熱気を帯びていた。
 キャサリンは中ほどの席に座り、プログラムに目を落とす。
 アンネの出番は後半だ。
 前半のプログラムが順調に進んでいく。
 ピアノの独奏。
 弦楽の四重奏。
 どれも水準の高い演奏だったが、キャサリンの意識はずっと客席と袖口に向いていた。

「お嬢様」

 エマによる耳打ち。
 席を立ったレイチェルが、何食わぬ顔でホールの端を歩いている。その手に、小さな紙の束が見えた。

「念のため、渡す先を数えます」
「7人よ」

 侍女の言葉に、キャサリンは即答する。

「……。……かしこまりました」

 エマの沈黙は違和感を覚えた証左だが、優秀な侍女は決して主人を疑わない。
 レイチェルは関係者らしい人物へと次々に近づいて、耳打ちをしながら紙を手渡していく。
 受け取った側の顔が、次第に変わっていくのがわかった。驚きと困惑、そして好奇と疑念が入り混じった視線がある一点に集まりはじめる。

 ひそひそとした話し声が客席に広がり始める中、キャサリンはヒューゴを見た。
 3列前の通路側の席だ。
 ヒューゴはすでに気づいていた。
 まっすぐに前を向いたまま、その横顔には表情と呼べるほど、はっきりとした感情は表れていない。

 ――落ち着いているわね。

 あるいは、覚悟があらゆる感情を飲みこんでいるのかもしれない。
 ホールの袖口に、出番を待つアンネの姿が見えた。
 進行役の声が響く。

「続きまして、声楽の部。アンネ・マクブライン様のご登壇です」

 拍手が起きた。
 アンネが舞台に出てくる。
 飾り気のない装いで、真っすぐに前を向いて歩いて来る。
 アンネは喉に手をやらなかった。

 ――万全ね。

 キャサリンの胸に、静かな安堵が満ちた。
 ピアニストが前奏を弾き始める。
 アンネが目を閉じる。
 直後、圧倒的な美声が会場を震わせた。

 〽煩わしいの 私を包むすべてが
  小さな世界に閉じこめないでよ
  私は空に羽ばたきたいだけ

 動きはじめたレイチェルでさえ、足を止めてアンネのほうに呆けたような視線を向けている。眉根を寄せた夫人がアンネのほうを凝視しながら、自分の喉に手をやっていた。

 音楽が鳴りやむ。
 それと同時に、アンネの歌唱によって静止していた時間が動きだした。
 相変わらず、拍手は起こらない。
 観客の様子に、アンネが少しだけ寂しそうに笑ってから舞台の袖に引いていく。その瞬間に、騒動をかき消すほどの柏手が響いた。

 ヒューゴのものだった。
 そのままヒューゴは立ち上がり、壇上に向かっていく。アンネはヒューゴの唐突な行動に、呆気に取られてしまったらしく、退く途中で止まってしまっていた。アンネが目を大きく見開いて、ヒューゴのほうを見やる。

 ヒューゴは客席に向き直り、まっすぐに声を出した。

「先ほどより、会場にお配りされている書類について、私からご説明申し上げます」

 ざわめきが一瞬だけ広がり、また静まった。
 グリーンフィールド家の後継ぎがいきなり立ち上がったのだ。だれもが成り行きを見守っている。

「書類に書かれている内容は、私とアンネ嬢の間に不適切な関係があったというものです。はっきり言いましょう。そのとおりです。私は、ここにいるアンネ・マクブラインを愛している」

 レイチェルの足が止まった。
 キャサリンの目も点になった。エマは額を手で覆っていた。

 ――おっと……?

「将来的には、公私ともに私がパートナーとして歌姫を支えていくつもりだ」

 レイチェルを睨みつけていたヒューゴが、キャサリンに目を向けた。
 短い視線の交換だった。
 意図は十分に伝わっている。
 想定していた段取りとはまるで違うが、このまま突き進むしかないだろう。エマに声をかけるよりも早く、夫人がしゃがれた声でヒューゴを叱りつける。

「何を考えているんだ、この馬鹿息子が! 私がいったい、お前のためにどれだけ力を尽くしてやったと思っているんだ」

「母上……」

 威勢が削がれる。
 さすがに実母を相手には、まだ大立ち回りを演じられないのだろう。
 レイチェルよりも先に、夫人を黙らせる必要がある。
 キャサリンは立ちあがっていた。