タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 会場の裏手で、人目を避けるようにグリーンフィールド夫人がアンネの前に立っていた。キャサリンとエマは2人を少し離れた場所から注視している。

「アンネさん、今日は大事な日ですね」

 夫人の声は穏やかだ。
 笑顔も柔らかい。
 ヒューゴの母親として、あるいは後援者の1人として、なんの不自然さもそこには見えない。

「この前、喉の調子が悪かったでしょう? 風邪気味かと思って、特別に用意したのよ。少し遅くなってしまったけれど、そこは許してね」

 そう言って、夫人はアンネの前で小瓶を振ってみせる。

「あ、ありがとうございます」

 アンネの顔に緊張の色が浮かんだ。
 当然、それは夫人にも伝わっただろう。困ったように笑った夫人が、いじけたように小瓶をしまう。

「そうよね。いくらヒューゴの母親だからって、大事な本番の前に渡されたんじゃ、不安になってしまうわね」

「そういうわけでは……」
「あなたのもう1人の母親として、心配しただけなの。そこだけはわかってちょうだいね」
「……」

 アンネが悲痛な表情で夫人を見つめた。
 老獪な夫人を相手にするのは、アンネには荷が重いはずだ。よっぽど自分が出ていってやろうかと思ったのだが、エマがキャサリンの腕を引いたので、どうにか思いとどまることができた。

「そうだわ! ちょうど私、今コップを持っているのよ。本当はヒューゴへの土産のつもりだったのだけれど……まあ、構やしないでしょう」

 夫人が上等なコップを手提げから取り出す。

「一緒に飲みましょうか」
「え……?」
「これならアンネさんも安心できるでしょう? 少し多めに作ってしまったから、2人で分けても平気よ」

 アンネが返事をするよりも早く、夫人は自分のコップに小瓶の中身を移すと、それを素早くあおった。次いで、アンネに小瓶を渡す。カラになったコップの底を見せられては、もはやアンネに抵抗する手段はないようで、おっかなびっくりという態度ではあったものの、小瓶の中身を口にしていた。

 その喉が小さく動く。
 飲んだふりができるほど、アンネは器用ではないはずだ。まず間違いなく、服用したのだろう。
 夫人がアンネのほうに手を伸ばす。アンネにとって邪魔な小瓶を回収しようという意図だろうが、受け取る直前、小瓶は夫人の手元を離れていた。

 取り損ねたのだ。

 ――わざとね。

 落下した小瓶が地面にあたって割れる。中身の液体はほとんど出なかった。アンネが飲んでしまった何よりの証拠だった。

「あらあら、どうしましょう。でも、よかったわ。渡すときにこぼさなくて」
「……そうですね」

 その場であたふたとする夫人だったが、それもつかの間の出来事だ。やがては、足で小瓶を払うと、見なかったことにすると決めたらしい。

「ごめんなさいね、本番の前に長々と。客席から、アンネさんの歌が聞けるのを楽しみにしているわ」

 夫人が踵を返す。
 その後ろ姿に一礼したアンネが、出演者用の入り口に向かって歩き出した。
 まもなく、夫人が振り返り、アンネを鬼の形相で睨みつける。

「さようなら人魚姫。歌だけ歌っていれば、声を失わずに済んだのにね。王子様に恋をしたあなたが悪いのよ」

 その言葉を耳にしたキャサリンは、これこそが夫人本来の姿だと確信していた。
 夫人が懐からもうひとつの小瓶を取り出し、口につける。
 一息であおると、小瓶を投げ捨てた。
 その動作に迷いはない。