数日後の昼下がり、キャサリンは王立音楽院の近くにいた。
華美な建物ではない。
だが、石造りの壁に刻まれた細工は丁寧で、長い年月の重みが滲み出るような、そういう佇まいだ。正門の前に立つと、中からかすかに声が響いて来る。
練習中の声だろうか。
ピアノの音と、それに乗った歌声だった。
「午後からは院内の小ホールを使って、非公式の発表があるようです。院関係者であれば、聴講は自由とのこと」
「そう。ちょうどいいわね」
――関係者じゃないけど……。
最悪、公爵家であることを振りかざせば咎められることはないだろう。なんだったらフィリップの名前を使ってもいい。
キャサリンは堂々と正門を潜って、小ホールへと向かう。
そこは、こぢんまりとした空間だ。
椅子が数列並んでいるだけで、華美な装飾らしきものは一切ない。
窓から差しこむ冬の光が、壁の白さを柔らかく染めている。
「……」
すでに席には数名の聴衆がいる。
院の関係者らしい人々が、手帳を持ったり腕を組んだりして、壇上を見上げていた。
キャサリンは後方の端の席に腰を下ろす。
エマは隣に控えた。
壇上には1人の娘。
年のころは20歳前後だろうか。
薄い黒色の髪を結わえずに、ただ無造作に垂らしている。飾り気のない装いだったが、立ち姿には自然な華があった。
舞踏会で遠目に見たときよりも、ずっと生き生きとした印象だ。
――歌姫アンネか……。
ピアノの前奏が始まる。
壇上に上がったときからずっと、アンネは目を閉じたまま微動だにしない。
その姿は歌手というよりも、祈りを捧げている修道女や聖女に近かった。
次の瞬間――アンネの声が発せられた。
「……ッ」
思わず、キャサリンは背筋を正していた。
上手いだとか、綺麗だとか、そういう鑑賞の次元にはない。
荘厳だ。
畏敬の念を表さなければいけない相手が、自分の目の前に立っているかのような感覚に襲われる。
無論、相応の技術はあるのだろうが、神聖さのせいで分析の対象になりえなかった。
――これがアンネ嬢本来の歌声……。
慈善舞踏会で聴いたときとは、まるで別物だ。
当時の歌唱も目を引くものだったが、何かが足りていなかった。今、響いて来るものこそが本物なのだと、否が応にも理解してしまう。
――これを奪ったのね……。
もはや不敬の域ではないのか。一度でも、アンネの歌声を聞いてしまえば、汚してやろうなどという気持ちは起こらないだろう。
静かな怒りが、胸の奥に灯る。
夫人の仕掛けに対する怒りとは、少し種類の違うものだった。
まもなく、歌が終わる。
拍手は起きなかった。
半分はキャサリンと同じように、アンネを神聖な存在として見てしまっているがゆえの恐れ、もう半分は真なる芸術としての余韻を自分の拍手で台無しにしたくはないという気持からだろう。
壇上のアンネが目を開け、聴衆に軽く頭を下げる。
舞台から降りようとして、何もないところでつまずいた。
「きゃっ!」
聴衆たちも反応に困っている。
「痛たたたた……」
キャサリンも目を白黒とさせたあとで、立ち上がる。
「エマ」
「はい」
「次の発表会はいつ?」
「来月の頭に、院主催の演奏会がございます」
それなりに時間はありそうだ。
小ホールを出る前に、もう一度だけアンネを見やる。
アンネはすでに指導者らしい人物と何かを話していた。身振りを交えながら、楽しそうに言葉を返している。
傍目には、何の問題もない元気な娘っ子だ。
「行きましょうか」
キャサリンが先に廊下へと出る。
エマもその後ろから静かについてきた。
――始めましょうかね。
心の中でつぶやいて、キャサリンは足を速めた。
華美な建物ではない。
だが、石造りの壁に刻まれた細工は丁寧で、長い年月の重みが滲み出るような、そういう佇まいだ。正門の前に立つと、中からかすかに声が響いて来る。
練習中の声だろうか。
ピアノの音と、それに乗った歌声だった。
「午後からは院内の小ホールを使って、非公式の発表があるようです。院関係者であれば、聴講は自由とのこと」
「そう。ちょうどいいわね」
――関係者じゃないけど……。
最悪、公爵家であることを振りかざせば咎められることはないだろう。なんだったらフィリップの名前を使ってもいい。
キャサリンは堂々と正門を潜って、小ホールへと向かう。
そこは、こぢんまりとした空間だ。
椅子が数列並んでいるだけで、華美な装飾らしきものは一切ない。
窓から差しこむ冬の光が、壁の白さを柔らかく染めている。
「……」
すでに席には数名の聴衆がいる。
院の関係者らしい人々が、手帳を持ったり腕を組んだりして、壇上を見上げていた。
キャサリンは後方の端の席に腰を下ろす。
エマは隣に控えた。
壇上には1人の娘。
年のころは20歳前後だろうか。
薄い黒色の髪を結わえずに、ただ無造作に垂らしている。飾り気のない装いだったが、立ち姿には自然な華があった。
舞踏会で遠目に見たときよりも、ずっと生き生きとした印象だ。
――歌姫アンネか……。
ピアノの前奏が始まる。
壇上に上がったときからずっと、アンネは目を閉じたまま微動だにしない。
その姿は歌手というよりも、祈りを捧げている修道女や聖女に近かった。
次の瞬間――アンネの声が発せられた。
「……ッ」
思わず、キャサリンは背筋を正していた。
上手いだとか、綺麗だとか、そういう鑑賞の次元にはない。
荘厳だ。
畏敬の念を表さなければいけない相手が、自分の目の前に立っているかのような感覚に襲われる。
無論、相応の技術はあるのだろうが、神聖さのせいで分析の対象になりえなかった。
――これがアンネ嬢本来の歌声……。
慈善舞踏会で聴いたときとは、まるで別物だ。
当時の歌唱も目を引くものだったが、何かが足りていなかった。今、響いて来るものこそが本物なのだと、否が応にも理解してしまう。
――これを奪ったのね……。
もはや不敬の域ではないのか。一度でも、アンネの歌声を聞いてしまえば、汚してやろうなどという気持ちは起こらないだろう。
静かな怒りが、胸の奥に灯る。
夫人の仕掛けに対する怒りとは、少し種類の違うものだった。
まもなく、歌が終わる。
拍手は起きなかった。
半分はキャサリンと同じように、アンネを神聖な存在として見てしまっているがゆえの恐れ、もう半分は真なる芸術としての余韻を自分の拍手で台無しにしたくはないという気持からだろう。
壇上のアンネが目を開け、聴衆に軽く頭を下げる。
舞台から降りようとして、何もないところでつまずいた。
「きゃっ!」
聴衆たちも反応に困っている。
「痛たたたた……」
キャサリンも目を白黒とさせたあとで、立ち上がる。
「エマ」
「はい」
「次の発表会はいつ?」
「来月の頭に、院主催の演奏会がございます」
それなりに時間はありそうだ。
小ホールを出る前に、もう一度だけアンネを見やる。
アンネはすでに指導者らしい人物と何かを話していた。身振りを交えながら、楽しそうに言葉を返している。
傍目には、何の問題もない元気な娘っ子だ。
「行きましょうか」
キャサリンが先に廊下へと出る。
エマもその後ろから静かについてきた。
――始めましょうかね。
心の中でつぶやいて、キャサリンは足を速めた。

