タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 キャサリンは午後の紅茶を前に、机の上に広げた本へと目を落としていた。
 薄手の装丁に、金色の文字で題名が刻まれている。
 恋愛小説だ。
 王都でここ最近、じわじわと評判になっている作品だった。

「……」

 ページをめくる。
 主人公の令嬢が、幼馴染の青年への想いを打ち明けられないまま、別の男との縁談を受け入れてしまう場面だった。

 キャサリンは少しだけ眉を寄せる。

 ――なんでそこで黙るのよ。

 心の中でつぶやいたところで、扉が静かにノックされた。

「お嬢様」

 エマが部屋に入って来る。
 手には書類を数枚持っていた。直近の情報をまとめたものだろう。

「最近は恋愛小説をよくお読みになっていますね」

 書類を机の端に置きながら、エマが言った。
 声音はいつもと変わらない。
 しかし、その一言には明確に何かが含まれていた。

「……そうかしら」

 キャサリンはページから目を上げず、短く返す。

「ええ。先週も別の一冊をお読みでしたし、その前の週にも」
「よく見ているわね」
「お嬢様のお世話をするのが私の仕事ですから」

 それっきり、エマは何も言わなかった。
 ただ静かに、キャサリンの横に立っている。
 その沈黙がなんとなく居心地悪くて、キャサリンは本を閉じた。

「ベアトリス嬢のことが、少し気になっていてね……」
「道理で。お嬢様に恋愛小説は似合わないと思っていました」

 間髪入れずに、エマが返す。
 キャサリンは片眉を上げて侍女を見た。
 エマはいつもと変わらぬ無表情だ。
 悪びれる様子も、フォローを入れる気配もない。

「……。あなた、最近少し口が達者になっていない?」
「お嬢様のおそばで学んでおりますので」

 キャサリンは返す言葉を探したが、見つかりそうになかった。
 仕方なく、話を続ける。

「侯爵家の令嬢よ。最近、社交界への出席がめっきり減っているでしょう?」
「存じております。婚約者であるエドワード・クロスビー伯爵との関係が、あまり芳しくないようですね」

 エマがうなずいた。

「ええ。だから気になっているの」

 キャサリンはカップを手に取り、紅茶を一口飲んだ。
 すでに紅茶は少しだけ、冷めていた。

「それで、恋愛小説ですか……」

 エマがわずかに目を細めた。
 ベアトリスは読書好きで知られている。恋愛小説が話題になっていることは、当然、ベアトリスの耳にも入っているだろう。キャサリンは内向的な令嬢との話すきっかけを作ろうとしていた。

「……精細な方でしょうからね」

 キャサリンが涼しく答える。

「……なるほど」

 エマが静かに一礼した。
 それ以上は何も言わない。
 ただ、その沈黙の中にかすかな笑みが潜んでいることを、キャサリンは見逃さなかった。

「何か言いたいことがあるなら、言いなさい」
「いいえ、何も」
「……」

 キャサリンは机の上の本に視線を落とした。
 金色の文字が、午後の光を受けて静かに輝いている。

「ベアトリス嬢に、連絡を取れる? 正式な形で」
「すでに文の準備をしております」

 さらりと返ってきた答えに、キャサリンは苦笑した。

「本当に仕事が早いわね、あなたは」
「フィリップ様がいらした時点で、おおよそ次の動きは見えておりましたので」

 素知らぬ顔のエマに、キャサリンはもう一度だけ片眉を上げた。

 ――どこにフィリップ様と関係があるのよ。

 それから、窓の外に目をやる。
 冬の王都は、どこまでも静かだった。
 灰色の雲が空を覆い、今にも雪が降り出しそうな気配がある。

 ――さてと。

 どんな令嬢なのかは、実際に会って見ればわかるはずだ。キャサリンは静かに立ち上がっていた。