タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 発表当日の朝、リディアは診療所に寄った。
 習慣だからという理由だけではない。
 今日という日を前にして、もう一度、カイムの顔を見ておきたかった。

「……」

 少年のベッドの前。
 椅子を引いて、リディアはしゃがみこむ。
 顔色は、先週より少しだけいい気がした。

「今日、発表があるの」

 リディアが声をかけると、カイムは目を丸くした。

「もう完成したのか?」
「ええ、そうよ。すごいでしょう? お姉さんを褒めなさい」

 今度は、はっきりとそう答えた。
 カイムが一瞬だけ目を見開いて、それからにししと笑う。

「ちぇっ、自力で治してやるつもりだったんだけどな。負けちまったか……」

 それが仲間たちに勇気を与えるための芝居であったことが、今ならばはっきりとわかる。
 だからこそ、リディアはカイムの小さな体を抱きしめた。

「……今までよく頑張ったわね」

 カイムの目に涙が浮かぶ。うれしさと照れ臭さで、またカイムはリディアを茶化す。

「やめろよ、姉ちゃん。青臭いぜ……」

 それでも堪えきれずに涙がぽろぽろとこぼれた。

「ちょっとは俺も手伝えたのかな?」
「えっ……?」
「ヴィクターって姉ちゃんの旦那だろう? 一緒に姉ちゃんを驚かせてやろうって、ちょっと前から姉ちゃんに内緒で薬をもらっていたんだ。体調の変化が見たかったんだって。でも、薬が完成しているなら、意味なかったのかな」

 激情に駆られそうになったリディアだが、どうにかそれを理性で抑えこんだ。

「カイムのおかげだよ。次からは、私が持って来るものを飲んでね。それから、ヴィクターは旦那じゃなくて……赤の他人だよ」

 リディアの胸から、ヴィクターへの思いは綺麗さっぱりなくなっていた。



✿✿✿❀✿✿✿



 王宮の発表会場は、前回と同じ熱気に包まれていた。
 貴族、医師、王宮の関係者。
 錚々たる顔ぶれが席につき、ざわめきが会場全体を包んでいる。
 新薬の発表というだけあって現場の空気には、濃密な期待が含まれていた。

「思ったより人が多いですね」
「こんなものじゃないかしら? まあ、それだけ注目されているのかもしれないわね」

 エマが尋ねれば、キャサリンは特に興味なさそうに答える。
 壇上の近くにはヴィクターが座っていた。
 前回と同じ、晴れやかな顔だ。
 今日の主役は自分だという自信が、立ち振る舞いの一つひとつに表れている。

 ――何も知らないのね。

 キャサリンは視線を動かす。
 背筋を伸ばして座るリディアの横顔が見えた。
 前回との違いは、一目でわかった。
 緊張の色がない。
 その目は静かで、どこまでも落ち着いている。

 ――準備が整っているのね。でも……何かあったのかしら。

 心なしか、ヴィクターへの視線が軽蔑の色を帯びているように見えた。

「まあ、いいわ」

 キャサリンは小さく息を吐いた。
 ルシアン殿下への根回しは済んでいる。
 エマが集めたセリーヌの証拠も、手元にある。
 欠陥を仕込んだ処方は、ヴィクターの手に渡っている。
 完璧だ。
 あとは、始まるのを待つだけだった。



✿✿✿❀✿✿✿



 発表が始まった。
 ヴィクターが壇上に立ち、会場を見渡してから口を開く。

「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」

 よく通る声だ。
 堂々とした姿は、発表者の見栄えとして悪くない。

「このたびランドール家では、長年の研究の末、難病の治療に有効な新薬の開発に成功いたしました」

 会場から、感嘆の拍手が起きる。
 医師たちが手帳を取り出し、メモの準備をはじめる。

 ――せいぜい今だけの栄誉を手にするといいわ。

 発表が進む。
 薬の概要。
 効能。
 投与の方法。
 流暢な説明が会場に響く。
 そうして、質疑応答の時間へと移った。
 最初に手を挙げたのは、王宮つきの若い医師だった。
 飾り気のない服装に、真剣な目をした青年だ。

「一点だけ。この薬の副作用については、どのようにお考えでしょうか? 非常に強い成分も散見されますので、相応の症状が出ると思うのですが……」

 ヴィクターは力強く答える。

「問題ありません。協力者によって十分に安全性を確認しております」

 即答。
 迷いのない声音。
 キャサリンはリディアを流し見した。
 リディアの顔は青ざめていない。

 ――そうね、リディア嬢。勝ちをつかみにいきましょう。

 若い医師は追撃の手を休めない。

「具体的な根拠を示していただけますか」
「……。それは……資料にも記載したとおりで」

 ヴィクターが書類に目を落とす。
 その手が、前回と同じようにさまよった。
 だが、以前にも増して言葉は出て来ない。
 当然だろう。
 欠陥の仕込まれた薬では、その問いに永遠に答えることは不可能だ。

「記載が見当たらないのですが……。それに、どうして毒を混ぜているのかも、教えていただきたい」

 若い医師が淡々と言った。
 会場がざわりと揺れる。
 医師たちが互いに顔を見合わせはじめた。

「……毒?」

 ヴィクターが呆けた表情で質問者を見返す。

「ええ、そうです。どちらも薬草として使われるものですが、一緒に混ぜてしまうと毒になる。あなたはそういうものを薬として使っているではありませんか。なぜ、そんなことを推奨しているのか、説明する責任があると僕は思いますが?」

 ――来る。

 キャサリンが静かに体を起こした。
 予定外の騒動に反応して、セリーヌが動くことは間違いない。
 リディアに責任をなすりつけるつもりだろうが、そうはいかない。
 小走りで近寄ったセリーヌが、王宮の関係者に近づいて書類を手渡す。
 改竄された証拠が、様々な者の手に渡っていく。

「エマ」
「はい、お嬢様」

 今回はエマを止めはしない。

「派手に行くわよ」

 侍女が静かに立ち上がり、するりと人込みの中に溶け込んでいく。
 会場の空気が変わり始める。
 ヴィクターのもとにも関係者が近づき、何かを告げる。
 困惑の色が広がっていく。
 ただし、その動揺は前回よりも弱い。

「……少々よろしいですか」

 キャサリンが立ち上がった。
 静かな声だったが、会場のざわめきがすっと引いた。
 エルフェルトという名前の持つ重さが、場の空気を変える。
 全員の視線が集まる中、キャサリンは落ち着き払ったまま続けた。

「セリーヌ嬢がお配りになった書類、少し私にも確認させていただけますか?」

 セリーヌの顔が、かすかに強張る。
 だが、すぐに取り繕った笑みを浮かべた。

「もちろんですわ。何も隠すことはございませんもの」

 その余裕が、今日で最後になるとは、まだ気づいていない。

「ありがとうございます」

 キャサリンがエマに目配せをする。
 エマが前に出て、手元の書類を静かに広げた。

「こちらは、セリーヌ嬢がお配りになった書類です。そしてこちらは、改竄前の原本です」

 エマが淡々と、2枚の書類を並べる。

「日付の書き換え。署名の差し替え。記録の順序の入れ替え。照合すれば、違いは一目瞭然ですわ」

 会場がしんと静まり返った。
 みな、何が起こっているのかわからないといった様子だ。
 キャサリンは言葉を止めない。

「この改竄が行われた経緯について、直接関与した者からの証言も取れております。エマ」
「はい」

 エマがもう一束の書類を取り出した。
 セリーヌの顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。

「そんな……でたらめですわ!」

 セリーヌが声を上げた。
 しかしその声は、震えていた。

「でたらめかどうかは、王宮でご判断いただければよいかと」

 キャサリンが静かに言い放つ。

 ――ひとまず、セリーヌ嬢の茶々は止めた。

 これ以上は出しゃばらず、リディアにバトンを繋げよう。