タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 エマが部屋を出たあとも、キャサリンはしばらく動かなかった。
 紅茶の中身が少しずつ冷めていく。
 カップの中で揺れていた湯気も、やがてはすっかりと薄くなった。

「……ギルバート」

 小声で呼びかければ、ほどなくして執事が現れた。

「どうされました?」
「エマの様子を見ていてちょうだい」

 ギルバートの表情がにわかに引き締まる。

「……。やはり体調を崩されているのですか?」
「わからないわ。それから、ダミアンという時計職人について、もう一度よく調べて」

 ギルバートが目を伏せる。

「先日お伝えした以上のこととなりますと、少々時間がかかるかもしれません」
「構わないわ。経歴ではなく、目撃証言を中心に情報を集めて」
「具体的な人相をお知りになりたいということでございますね」
「ええ。どこで誰が、どのような姿を見たのか。できるだけ細かくお願い。それと……エマが外出するときには、後ろをつけてちょうだい」

 ギルバートは伏せていた目を大きく見開く。
 雇用主のことを見返す視線は、言外にキャサリンの正気さを問うていた。

「そこまで状況は逼迫しておりますか?」
「そこまでの事態であっては困るから、あなたにお願いしているのよ。私にも嫌なことを任せている自覚はあるわ」

「承知しました。ですが、手前の尾行ではエマ様に気取られる可能性が高いかと」
「大丈夫よ、きっと。幸か不幸か、今のエマが相手ならね……」

 ギルバートが退室したあと、まもなくキャサリンも椅子から立ちあがった。
 自分の目でも確かめるべきだと思ったのだ。
 エマの部屋に入ることは、どうしても気が引ける。雇っている立場であっても、彼女のプライベートを確保しておきたかったのだ。だが、今は礼儀よりも優先すべきものがある。

 廊下へ出る。
 使用人たちはそれぞれの仕事に散っており、屋敷の中は穏やかだった。
 エマの私室は、使用人部屋の中でも奥まった場所にある。
 扉の前まで来てから、キャサリンは尻込みするように、一度だけ息を整えた。
 数回、しつこいほどにノックをする。

「エマ? ごめんなさい、失礼するわよ」

 返事はない。
 休んでいるなら無理に起こすほどではない。
 念のために侍女の様子を確かめようと、キャサリンは扉を開けた。
 部屋の中は整っている。
 寝台の上には畳まれた上掛けがあり、机の上には小さな花瓶がある。窓辺にかけられた薄い布の隙間からは、陽光がやわらかく差しこんでいた。

 エマの姿はない。
 厠にでも行っているのだろうか。
 出ていこうとしたときに、床に落ちていた小さな物を認めた。

「……」

 近づき、膝を折る。
 拾い上げたのは、ガラスでできた家の細工だった。
 いくらか歪んでいる。屋根の形も、窓の大きさも不揃いだ。しかし、光にかざすと、青みを帯びた透明な輝きが、手のひらの中でほころぶように広がった。

 年代物だろう。
 大切に扱われて来たことは、ひと目でわかった。
 昨夜落としたのはこれだろうか。屋根の端が、小さく欠けているのが見つかった。

「これを探していたの……?」

 ガラス細工といえば、死別したダライアスの作品に違いない。
 不安を拭いに来たはずなのに、なんだかかえって嫌な予感が膨らんだ。
 部屋を見回す。
 机の引き出しが一つだけ開いていた。中には布に包まれた古い手紙や、細々とした記念品が収められている。エマらしくなく乱れ方だ。

 だが、もしこれを探していたのなら、取り落とすのは少々変だ。
 キャサリンはガラスの家を机の上に置いた。
 背後から小さな声が響く。

「お嬢様」

 振り返ると、扉口にエマが立っている。
 顔色は明らかに悪化していた。そうであるにもかかわらず、毅然と背筋を伸ばしている。

「ごめんなさいね。私に隠れて働いていないか、つい気になってしまったの」
「いえ、水を取りに行っただけにございます」

 エマの視線が、机の上のガラス細工へ向かう。
 表情が揺れた。
 動揺と困惑の色が強い。

「床に落ちていたわ。物音の正体はこれだったのね」
「……。はい」

 うなずいたエマの声は、ひどく遠かった。

「大切なものなのでしょう?」
「そうですね」

 不気味なくらい淡泊な返事に、キャサリンは内心で焦りを覚えた。

「ダライアス様からのいただきものよね」

 あえて元配偶者の名前を出した。
 エマの唇がわずかに動く。

「ダライアス……」

 確認するようなつぶやきだ。
 やがて、エマが小さく笑う。

「……そう、ですね。ダライアス様からいただきました」

 キャサリンの前とはいえ、夫の名を呼ぶには不自然な敬称だった。

「エマ」
「はい」
「しばらく仕事はいいわ。休んでいなさい」
「……」
「働きすぎたのよ。無茶な注文ばかりした私を許してちょうだい」
「大丈夫ですよ、お嬢様。少し思い出せなかっただけですから」

 その返事は、とても笑って済ませられるようなものではない。
 エマの儚げ笑みに、キャサリンは胸が締めつけられる思いだった。

「お願いだから、休んでちょうだいね……」

 震えそうになる声で言って、キャサリンは退室する。
 エマの顔は見られなかった。

 ――急いでリディア嬢に連絡を取らないといけないわ。

 だが、行動するのが遅すぎたのだろう。